私は十字架につけられた人を見る。もっとも、処刑された人のことではない。例えば、病気の人である。あるホスピス病棟で、自分の死を待つ(聖書では「眠りにつく」という表現をする)人を見舞い、家族の方々を一緒に祈りを唱えたことがある。その方は、もはや自分の力で身を起こすことも、自由に身体を動かすこともできない状態であった。それはまさに、十字架につけられた姿であった。
病人に限ることではない。人は誰でも自分には選べないことに満ちている。どんな親に、あるいは家庭に生まれるか、それは誰も選ぶことはできない。戦争の時代か、平和な時代に生まれるかも、選択などできない。男か女かも同じである。人は誰でも、自分がこの世に生を授かるときに、自分では選べない、ある意味での不自由さを背負う。これもまた、十字架の一つではなかろうか。 |