牧師室より


十字架につけられている私

身動き取れない姿

 イエス・キリストは十字架につけられた。手と足に釘を打ち付けられ、縛りつけられたのである。十字架の下で、「お前が神の子なら、十字架から降りて自分を救ってみろ」と兵士たちは悪態をついた。しかしイエスは、十字架で身動きが取れず、身体を自由に動かすことはできなかった。
 十字架とは、身動き取れず、自分の意のままに身体を自由に動かすことができない様を言う言葉でもある。そしてそれは、イエスに留まらず私たちの誰もが日頃から、あるいは人生において体験することではなかろうか。



私の十字架

 私は十字架につけられた人を見る。もっとも、処刑された人のことではない。例えば、病気の人である。あるホスピス病棟で、自分の死を待つ(聖書では「眠りにつく」という表現をする)人を見舞い、家族の方々を一緒に祈りを唱えたことがある。その方は、もはや自分の力で身を起こすことも、自由に身体を動かすこともできない状態であった。それはまさに、十字架につけられた姿であった。
 病人に限ることではない。人は誰でも自分には選べないことに満ちている。どんな親に、あるいは家庭に生まれるか、それは誰も選ぶことはできない。戦争の時代か、平和な時代に生まれるかも、選択などできない。男か女かも同じである。人は誰でも、自分がこの世に生を授かるときに、自分では選べない、ある意味での不自由さを背負う。これもまた、十字架の一つではなかろうか。



キリストと共に十字架に
 とすれば、あの2000年前のイエスの十字架は、私たち自身に深く関わって来る出来事であったことが明らかではなかろうか。
 無論、自分の努力や働き次第で、それらの束縛から自由になれるものもある。しかし、誰でも何かの束縛の下で、身動きが取れず、ある時には重い足かせを引きずりながら生きているのではなかろうか。つまり、誰もが何らかの十字架を背負いながら生きているのである。
 パウロという人はこのことを認め、さらに「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2:19)と言った。自分の現実を認めながら、しかし同時に、自分の十字架はキリストのあの十字架と同じだと明言した。とすれば、私の十字架は自分一人で孤独に負うものではなく、イエス・キリストが一緒の背負ってくださっているということであろう。
 だから私はこう思う。イエスが十字架を担うときに苦痛に満ちた顔をされたとすれば、その苦痛に歪んだ顔は、私の苦悩を一緒に背負ってくださっているからではないかと。そう思えるならば、何と感謝に満ちた十字架であろうか。

2008年2月29日

 「蕾がわずかに見える桜」


最新の「牧師室より」へ