牧師室より


十字架を巡る思い

十字架のイメージ

 教会は今日から特別なときを過ごすことになる。イエス・キリストの十字架のできごとを特に覚えるのである。3月23日のイースターの日まで、そのときは続く。
 十字架は今日では、若者を中心に、ペンダントやイアリングのアクセサリーのイメージが優先している。ファッション感覚である。しかしながら、十字架は罪人を処刑するための道具であった。罪人の叫びや血の跡がにじんだ、じつに凄惨なものでしかなかった。
 古代にさかのぼれば、紀元前のローマの時代から、人々の見せしめとして、人目につく小高い丘に杭を打ちたて、できるだけ苦痛を長引かせて処刑するためのものであった。



無関心を装った人

 イエス・キリストの十字架もローマ時代のものであった。イエスが生きたユダヤの地は(現在のイスラエル)ローマ帝国が支配していたため、犯罪人はローマの許可なくしては処罰できず、ローマ兵が直接処刑したのである。
 当時のユダヤの管轄責任者はピラトであったが、彼は難題を抱え込むことになる。ユダヤ人たちから、「十字架につけよ」と訴えられたイエスに、特別な罪状を認めることができなかったからである。本心では、イエスを鞭打つ程度にとどめ、見逃してやっても良いと思ったのであろう。しかし、執拗なユダヤ人指導者や宗教家たちに嫌気がさし、「無関心」を装ったのである。「私には関係ない」と、手を水で洗い流す当時の儀式を踏みながら、ピラトは事実上イエスの十字架刑を認めたことになった。



身近にもある愛の欠如
 イエスは無罪にもかかわらず、十字架の上で罪人として処刑された。では、どのような罪を着せられたのだろうか。これが、聖書の読者への問いかけである。ただし、入試や資格試験のような模範解答は聖書には書いていない。聖書の問いかけを、読者自身が受け止め、自分の答えを探し出すしかないのである。
 例えば、ピラトの場合はどうなるのか。彼は、他者の苦悩や窮状に「無関心」であった。隣人の痛みに目を逸らし、自分の保身だけを考えた。この無関心は余りにも冷たく、自己中心的で、それが罪というものではなかろうか。イエスのご生涯は、ピラトとは全く逆で、出会うすべての人の痛み苦しみに共感し、彼らのために手助けされたのである。いわば、ピラトの無関心の替わりにイエスは生きられたのであった。イエスの十字架はその象徴で、ピラトの罪の肩代わりではなかろうか。
 そうすると、読者はさらにこう考えるに違いない。ピラトと同じ「無関心」さを、私も持っていないだろうかと。この問いが大切ではないかと思う。そして隣人の痛みへの無関心とは、愛の欠如を意味しないだろうか。私たちの今日の社会、生活の場、学校、職場、家族、サークル、アパートの隣人、これらを見渡すならば、この無関心さがいま満ちていないだろうか。
 イエスの十字架は、他人事ではないように思えるのは私だけであろうか。

2008年2月6日

 「玄関の花」


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