牧師室より


主がお入り用なのです

 向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつなであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。...もしだれかが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。(聖書の言葉 マタイ21:2〜)

牧師(東教区付き) 伊藤 早奈

クリスマスの迎え方

 12月に入り、私たちは主の降誕を待つ季節を迎えました。町やデパート、駅などにもクリスマスを祝うたくさんのイルミネ?ションが楽しそうに飾られています。
 私は、幼い頃に通った教会の日曜学校の先生がこの季節になると必ずお話された、お話をよく思い出します。
 それはこんな話です。教会へ行ったことがない会社の同僚に「教会でもクリスマスってやるの?」と聞かれたという話です。
 この待降節の季節を迎えて教会でも、クリスマスに向けてのいろいろな準備がなされ始めています。私たち一人一人の心もどのように備えていけばいいのでしょうか? 立派にきらびやかに、そしてうきうきで楽しくクリスマスを迎えられるように備えればいいのでしょうか?
 いいえ違います。私たち一人一人が何も特別なことをしなくても、そのままありのままで心を主に向けてできることをすればいいのです。
 待降節第一主日を迎えた今日、与えられました聖書の箇所は主イエスのエルサレム入城が記されている箇所です。この聖書の箇所は「枝の主日」という主イエスがエルサレムへ入場される、言い換えればこの箇所は主イエスの受難物語の始まりの記事です。どうして今、私たちにここが示されたのでしょうか? 主イエスのエルサレム入城は今、私たち一人一人に何を語っているのでしょうか。



子ろばを必要とされる主

 皆様とご一緒に、聖書に聴いていきたいと思います。
 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いてきなさい。もし、だれかが何かを言ったら『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」と主イエスは、弟子たちに言われます。
 主イエスと弟子たちとの一行はエルサレムへと近付きます。そして、主イエスはエルサレムへ入城されるときに、子ろばを必要とされます。その時代、日常に使われていた子ろばを主は必要とされるのです。
 そして主イエスは共につないである母ろばであろう、ろばと共に子ろばを必要とされます。その子ろばが一番安心して主イエスの元へと行かれるように親ろばと一緒なのです。
 二人の弟子が、向こうの村に行くと主イエスが言われた通り、ろばと子ろばがつながれており、彼等は主イエスが言われた通りにして、ろばと子ろばを連れて来ます。主イエスのもとへと連れてきたとき、弟子たちは、ろばと子ろばに自分たちの着ていた服を掛け、その上に主イエスは乗られました。
 道の上には、服や枝が敷かれ、人々は主イエスに祝福の言葉をかけます。栄光のメシアへの期待であり、賛美でした。しかし、主イエスにとってこの道は人々が期待する栄光の王への道ではなく、十字架へと続く道に他なりませんでした。でも、主イエスご自身が見上げていたものは十字架という死の先にある命への道でした。
 今、現在に生きる私たちに何が語られているのでしょうか。主の降誕に備えるこの季節に私たちは何を備えるのでしょうか。
 主イエスは二人の弟子に言われました。私が必要とするのは、「子ろば」であると。この子ろばと日本語に訳されている言葉は子馬とも、動物の子どもとも訳すことができ、特定の動物に向けられた言葉ではないとも私たちは理解することができます。そしてその子ろばをただ1匹だけ親から引きさき、子ろばが不安になるであろう状態にはされないのです。
 ただ安心して、主のご用に用いられるために。そしてその子ろばを主はお入り用と言われただけなのです。その子ろばとは、たくさんいるうちのどれでもいいのではなく、その子ろばなのです。主は子ろばの状態をご存じであり、その子ろばだからこそエルサレム入城のときに必要とされるのです。



そのままで必要とされている
 「私はここにいてもいいのだろうか」、こんな気持ちに襲われるときがあります。実は今日与えられました聖書日課の平行箇所であるマルコ11:1-11は、私が神学校を卒業し牧師になるための教師試験で課題とされた説教作りの箇所でした。
 テレビのドラマで観た方も少なくないと思いますが、私は『1リットルの涙』というドラマの主人公の女の子と同じ病気の脊髄小脳変性症という進行性の難病です。神学校を卒業し牧師になろうとしていたときも、もちろん自分がこの病であることをわかっていましたし、こんな自分でも主は必要としてくださるんだという強い安心を胸に、牧師としての働きを与えられ喜んで進んで来ました。
 しかし、この病は進行性です。だんだんできたことができなくなっていくことが増えてきます。誰も止めてくれません。いくら4年前の私が必要とされるところがあっても今の私は言葉もうまく言えないときもあるし、字もうまく書けない、物もうまくつかめないときもある。「そんな私がここにいてもいいのだろうか」と思うことがあります。
 しかし、静かに、そしてしっかりと今日のみ言葉は語られます。
 「あなただから、私にあなたが必要です。」
 私たちは、辛いとき悲しいとき、「何のために生きているのか」「何のためにこんなことが起きるのか」「何のために・・・」と問うことが多くあります。特に一般的に「あってはならないこと」「あってほしくないこと」に出会ったときに思うことがよくあります。でも、私たちが、あってほしくない状態と思うものは本当に必要ないものなのかと、今日の聖書の箇所は私たちに問い掛けてきます。
 主は今、私がどのような状態であるのか、ここで立ちすくむしいかできないでいる私をもご存じです。
 しかし、主は言われます、「あなたが必要です」そのままのあなたがそのままで必要とされるのです。これは、一人一人の人に同じように語られている言葉です。私たちは私たち一人一人の違った在り方で、そのまま主に必要とされているのです。
 子ろばをただ1匹ではなく親ろばと共に主が用いられたように、あなたの安心する状態でありのままをそこで生きるために、主によって用いられると言うことなのです。主が、私を私の生きているその場で、必要とされているのです。
 主が私たちのただ中に入城されます。私の「命」の意味を主はご存じで、私たち一人一人を必要とされるのです。
 私たちは、この季節、一人一人の在り方で、そのままを主に必要とされていることを覚え、私たちが生きているただ中へ主が入城されることに心を向けたいものです。

2007年12月10日

 「玄関の花」


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