牧師室より


この世の天秤が無となるとき

(聖書の言葉から)イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。......悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。 (ルカ福音書15:3〜7)
この世の天秤

 99対1。勝敗は明らかであろう。民主主義や多数決という天秤で量れば、当然重い方が下に行く。人間の価値もしばしばこれと同じ天秤で量られていないだろうか。
 例えば、賃金は働きの量や成果に応じて決められていないだろうか。たくさんの仕事をし、多くの儲けを稼ぎ出した人がより多くの報酬をもらう。資本主義や競争社会での法則である。戦後の日本が奇跡的な経済成長を成し遂げた背景には、この法則を国民全体が基本的に受容し、それを前提に汗水流して働いたことがある。イソップの「蟻とキリギリス」の寓話を子供の頃幾度も聞いた記憶が私にはある。蟻のように一生懸命に汗水流して働き、たくさんの蓄えを持つことが幸いなのであると。
 真面目に、汗水流して労働することの勧め。これはむしろ大切なことだと私は思う。今日、これをもっと声高に奨励して良いと考える。しかも「生真面目」とは言わなくとも、真面目に働き、真面目に学び、真面目に生きることは、聖書的でもあると思う。
 しかし人間が考え出した知恵や「〜主義」には、それが最も優れたものであったとしても、必ず落とし穴があり、陰がある。私たちがいつのまにか持ってしまっている天秤がこれである。「たくさん持っている人に価値がある」という天秤である。



失格者の羊飼い?

 羊飼いは100匹の羊を飼っていたが、その中の1匹が迷い出た。すると羊飼いは、99匹を野原に残してまでも、つまり野原に放置し、危険に晒されるとしても1匹を捜し求めるのである。羊飼いとしては監督不行き届き、失格である。
 ひねくれた批評家は、この羊飼いの無責任さを指摘するだろう。でもそれは余りにも浅薄な見方だと思う。イエスがこの譬えを語られた目的は、1匹の命の価値の大きさを語るだけでなく、私たちがいつの間にか持ってしまっている天秤が、いかに怪しいものかを諭すためであった。つまり、99対1を量る私たちの天秤は、必ず数の多い方が下に落ちるのであるが、それが本当に正しいのだろうか、これがイエスの問いである。



天秤が無意味になるとき
 無重力という言葉ある。例えば、スペースシャトルに乗り込んだ宇宙飛行士たちが、宇宙空間で宇宙遊泳を楽しんでいる映像を見る。誰もが一度は体験して見たいことの一つではないだろうか。
 あの宇宙には重力が無い。だから「無重力」と言う。もっと違う表現をすれば、「重力は無意味である」ということである。船員の誰かがスペースシャトルに天秤を持ち込んだとしよう。天秤の左に一人が座り、右には5人が座って見たが、天秤はどうなるか。どちらにも振れることはないはずである。99対1でも同じである。つまり、私たちがこの地上で量っていた天秤も、宇宙に行けばそれは「無意味」ということである。
 宇宙は無限大で、それに比べれば地球はアフリカのサハラ砂漠の一粒の砂に過ぎない。井の中の蛙である。この地上にある天秤、しかも自分が作り上げた天秤は、何と小さく、何と狭い度量かと思う。にも拘わらず人間は、自分のか弱く、貧しい量りでものごとすべてを推し量ろうとしているのではないか。
 当時、人間の価値が低いとされていた罪人や徴税人と一緒に食事をされたイエスに向かって、多くの宗教家たちがイエスを非難した。自分たちは、彼らに比べると遥かに価値があると疑わなかった人たちである。いつの時代も陥りがちな宗教家たちの落とし穴である。彼らの天秤によれば、自分たちが乗った皿の方が、罪人たちが乗ったそれよりも断然下に落ちるはずであった。
 しかしイエスの天秤は違った。1人の罪人が乗った皿と99人が乗った宗教家たちの皿でも天秤はどちらにも振れない。99人の方が下に落ちることはないし、1人の方が落ちることもない。どちらにも振れない。つまりこの天秤自体が「無意味」なのである。


すべてが極めて良かった!
 人の価値はどのようにして決まるのか。そもそも、そのような価値の優劣を決めること自体が無意味であり、決めたところで何の意味もないのである。なぜなら、人の命、人の存在の価値は、神が与えてくださったもので、すべてが「極めて良い」(創世記1:31)のである。無意味な命や無価値な存在などない、これがイエスの教えであった。
 敬老の日を先日迎えた。高齢化社会が拍車をかけていることが改めて報道された。その報道の背後の漂っている雰囲気は、年金などの将来の社会保障への不安であり、高齢者がこれ以上増えることが問題であるかのようである。そして高齢者の命と若者の命を比べた天秤は、明らかには若者の方が下に落ちる。いや、それだけではない。たとえ若者であっても、収入や社会的評価によって勝ち組と負け組みに選別され、怪しげな天秤で量られる時代である。ただ、これはいつの時代にもあり、イエスの時代にもあったこの世の法則に過ぎない。しかしこれが今行き詰っている。
 だからこそイエスの教えには価値があると思う。そのイエスは、私たちがこの教えに耳を傾け、この教えに従って生き始めることを願っているに違いない。

2007年10月8日

 「玄関の花」


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