99対1。勝敗は明らかであろう。民主主義や多数決という天秤で量れば、当然重い方が下に行く。人間の価値もしばしばこれと同じ天秤で量られていないだろうか。 例えば、賃金は働きの量や成果に応じて決められていないだろうか。たくさんの仕事をし、多くの儲けを稼ぎ出した人がより多くの報酬をもらう。資本主義や競争社会での法則である。戦後の日本が奇跡的な経済成長を成し遂げた背景には、この法則を国民全体が基本的に受容し、それを前提に汗水流して働いたことがある。イソップの「蟻とキリギリス」の寓話を子供の頃幾度も聞いた記憶が私にはある。蟻のように一生懸命に汗水流して働き、たくさんの蓄えを持つことが幸いなのであると。 真面目に、汗水流して労働することの勧め。これはむしろ大切なことだと私は思う。今日、これをもっと声高に奨励して良いと考える。しかも「生真面目」とは言わなくとも、真面目に働き、真面目に学び、真面目に生きることは、聖書的でもあると思う。 しかし人間が考え出した知恵や「〜主義」には、それが最も優れたものであったとしても、必ず落とし穴があり、陰がある。私たちがいつのまにか持ってしまっている天秤がこれである。「たくさん持っている人に価値がある」という天秤である。
羊飼いは100匹の羊を飼っていたが、その中の1匹が迷い出た。すると羊飼いは、99匹を野原に残してまでも、つまり野原に放置し、危険に晒されるとしても1匹を捜し求めるのである。羊飼いとしては監督不行き届き、失格である。 ひねくれた批評家は、この羊飼いの無責任さを指摘するだろう。でもそれは余りにも浅薄な見方だと思う。イエスがこの譬えを語られた目的は、1匹の命の価値の大きさを語るだけでなく、私たちがいつの間にか持ってしまっている天秤が、いかに怪しいものかを諭すためであった。つまり、99対1を量る私たちの天秤は、必ず数の多い方が下に落ちるのであるが、それが本当に正しいのだろうか、これがイエスの問いである。
「玄関の花」
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