牧師室より


大自然への感謝

釧路湿原への旅

 この夏、北海道の釧路湿原を家族で訪れた。手付かずの自然が残されている数少ない地の一つであろう。カヌーでの川下りを楽しんだが、途中小さな干潟のあるところでカヌー上の一休み。干潟には誰かが踏み荒らしたような足跡があった。でもよく見ると、人間の足跡ではなかった。鹿の足跡、複数の鳥の足跡であった。その足跡一つひとつに特徴あり、それぞれの生き物の命の尊厳なるものを垣間見る思いがした。
 私たちにも足跡がある。でも、アスファルトやタイルに塗り固められた道だけを歩いているため、自分の足跡を見ることはない。そして自分の足跡を辿ることに無関心、無感覚になっていることに気づかされた。



人生にも足跡が

 人生にも足跡がある。それは自分のこれまでの人生を振り返り、そしてその意味と意義を確認するための印である。山道を歩くときに、途中で辿ってきた道を振り返ることがあるが、これと同じである。その道は曲がりくねり、決して平坦でも、まっすぐの道のりではなかったことが分かる。そして「まぁ、よくここまで登ってきたものだ」とある種の感動を覚えるものである。
 自分の人生も時々振り返ることがあろう。その長さは関係ない。まっすぐな道のりの人はいない。まさに山あり、谷ありである。ただ重要なことは、「まぁ、よくここまでやって来れたものだ」というある種の肯定的な感情を持つことができるかどうかではなかろうか。ただこの感情とは、単に「自画自賛」の意味ではない。



ただ遜り、感謝する心
 ではどんな感情か。それは感謝というものに近いものではないかと思う。親や兄弟、祖父母、あるいは友人、知人への感謝は当然のことである。しかしそれだけではない。人間の力の及ばない、人間の力を超えたものへの感謝である。
 現在人は、自分の足跡に気づくことが無くなったように、自分では気づかない方の存在にも疎くなっていないだろうか。自分の力を超えた方である。その方によって自分の人生は守られ、日々の生活も支えられているということへの気づきと感謝である。
 釧路湿原は、気の遠くなるほどの古からの年月を重ねて、素晴らしい大自然を作り上げて来たと聞いた。人類の誕生を遥かに超えた時から、天地創造の神がこの自然を造り、今日まで育んでこられたのである。その営みに、我々はただ謙虚になり、そしてまず感謝を献げることが大切なのだろう。そしてさらに、大自然を維持するための地域の方々の尊いご奉仕に感謝を献げよう。

2007年8月31日

 「釧路湿原」


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