牧師室より


キリスト教は「宗教」ではない?

ある宗教から見えること

 先日ある宗教施設を見学する機会があった。キリスト教会ではない。隣接した巨大な美術館は実に壮大で、清潔感に溢れていた。祭りごとを行う会館には4,000人足らずが収容できると聞いた。噂には聞いていたが、我々の日本の教団(世界規模では無論これ以上に大規模であるが)では想像もできないほどの規模を誇っていた。
 同じように壮大で、立派な宗教施設を持っている宗教が、富士山の麓や各地にいつくも存在していることは知っているが、その他にもたくさんあるのであろう。
 そもそも宗教とは一体何であろうか? 改めて考えさせられたひと時であった。



キリスト教は宗教ではない?

 ある神学者が「キリスト教は宗教ではない」と言ったことがあった。教会に連なっている者でさえ首を傾げたくなる言葉であるが、教会員以外の方々はなお更であろう。
 なぜ「キリスト教は宗教ではない」と言ったのであろうか。その神学者は「宗教」という言葉そのもの特徴をいくつか規定したのである。その一つは、「神様のことを語りつつも、結局のところ、自分たちの欲や願望を反映しているに過ぎない」ものであった。つまり、神の声と言いつつ、実は「自分の思い」を叫んでいるだけだということである。
 意図的に、この宗教の本質を悪用して宣教活動を行うときに、最悪の結果がもたらされる。そのような宗教に囚われてしまった人たちの悲劇を、我々はしばしば耳にしている。



イエス、パウロの教えから
 宗教の特徴に、もう一つのことを加えることができると私は思う。それは救われる者と救われない者という具合に、両者に線引きをすることである。この宗教を信じれば救われるが、他の宗教では救われないということである。
 キリスト教でも実はこの解釈は分かれる。教会に来れば救われ、洗礼を受ければ救われると、通常教会も主張する。難しい問題である。他宗教を信じていたのでは、救われないのかということに繋がるからである。
 私には自信はないが、しかし聖書を丹念に読んで行くと、むしろイエスもパウロも「すべての人が救いに与っている」ことを語っている箇所にしばしば目が止まるのである。もし徒な線引きをするのがキリスト教会だとすれば、そのキリスト教こそが「宗教」と呼ばれるものであって、それは本来の聖書の教えではないと言わざるを得ないように思う。そのような宗教を主張するのであれば、「キリスト教は宗教ではない」と私も思う。
 牧師も生涯求道者である。この理解は間違っているのかも知れないが、この問いの答えは、聖書を虚心坦懐に、注意深く、祈りつつ、聖霊の助けをいただきながら見つけ出すしかないのであろう。

2007年7月31日

 「芙蓉(2006年夏撮影)」


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