牧師室より


本当に帰るところのある家族を

とにかく、一つに集う家族として

 教会の礎は聖書である。ルター派の教会では会堂を建築するとき、あるいは定礎式の際に、聖書を建物の下の土に埋める習慣がある。教会の礎が聖書であることを象徴的に行うのであるが、これは単なるパフォーマンスではない。教会の信徒の群れの誰もが、教会においては聖書の教えを基盤とし、また人生においてもそれを礎として生きなければならないからである。これが大前提である。
 使徒言行録には、教会の誕生の歴史がより具体的に記されている。今日こそ全世界に20億近くものキリスト者が存在するが、しかし教会が誕生したころは、わずかな数十人であった。私たちの教会と何も変わらない規模から宣教の歴史が始まったのである。では彼らは何をしたのであろうか?
 まず彼らは、日ごとに集まったと書いてある。とにかく、一ヶ所に集まったことが繰り返し記されている。そこで祈りと賛美を共にし、イエスの教えと行いを思い起こしたのである。今日ほど時間に追い立てられることもない時代であったかも知れないが、いずれにしても彼らは定期的に、もう一つの家族を築いたのである。だからそこでは一緒に食事をすることも多かったのだろう。誰もが家族の一員でいることが当然のように、日ごとに、あるいは安息日ごとに教会に帰って来て、礼拝を共にし、そして食事を囲む。家の掃除と片付けを行うように、教会でも自分の家と同じように責任をもって手足を動かしたのである。



私たちの居場所

 教会の何が面白かったのだろうか。いやもしかしたら、そのような疑問自体がおかしいのかも知れない。「教会は面白いから行く」ところではないし、逆に「面白くないから行かない」というところでもないからである。自分の家族がそうであるように、教会は神様がすべての人を招いておられる大きな家族であり、そこは何があっても帰るべきところだからである。そのような大きな家族としての教会を、私たちは聖書に学ぶ。
 家族は客人を迎えることがある。つまり、家族は自分が帰るところであり、また自分の居場所があるところであるように、客人にも座布団を差し出し、そこに居場所を提供するのである。神様の目から見れば、教会の門を潜る人は誰でも神様の下へ帰ってきた人であり、また客人である。本来「お帰りなさい」と、迎えるべき客人、それが来会者である。



聖書の家族を求めて
 教会の宣教とは、外に向かって宣伝することだけではない。むしろ、神様の下に帰ってきた人に、家族の一員のごとくスリッパを差し出し、座布団をもって居場所を提供することだと思う。そしてその客人はいつまでも客人ではない。自分たちの家族の一員として迎え入れ、祈りと賛美を共にし、家族で当然担うべきことを、自然と担う合う仲間へと招き入れるのである。それが本来の教会の宣教である。
 池袋教会の宣教が始まった100年前と比して、日本の家族の姿は随分と変わった。3世帯の同居が当たり前であった家族が、今日はむしろ珍しくなった。夫婦、あるいは親子の絆も随分と変わり、生活形態も驚くほど変化した。その大きな変化の歪みが、今の日本社会の暗闇を生み出していないだろうか。
 ところが、教会という大きな家族は100年前と何も変わっていないことに気づかされる。いやイエスの時代と何も変わっていないのではないだろうか。聖書の教えを礎とし、とにかくそこに集まり、祈りと賛美と奉仕を共にする。そこに自分も客人も自分の居場所を見つけるのである。そのような、2000年を経ても何も変わらない家族の姿は、変動目まぐるしい今日にあって、極めて意味あるものではないだろうか。「あそこに行けば、本当の家族の姿がある」、そのような家族としての教会を目指したいと思う。

2007年6月15日

 「教会の花」


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