牧師室より


神様のご支配に目を停めよう

天に昇られたイエス

 イエス・キリストは十字架の死の後に、死から甦られた(復活)。そしてその後どうなったのだろうか? 聖書には、その後天に昇られた(昇天)と書いてある。いわば、イエス・キリストのご生涯が、これでひとまず終わったことになる。
 ではそれから、どうなさったのだろうか? すなわち、いま、この時、あのイエスはどこにいらっしゃるのだろうか?
 議論好きな教会は、このことを巡っても色々と論争を重ねてきた。結論はまちまちである。ただ共通した理解もある。それは、「またいつしか、天に昇られた姿で、再びこの地上に降りてきてくださる」という素朴な信仰である。それがいつなのか、どのような現象が起こるのか、我々人間には計り知れない。ゆえに、余り穿鑿しないで、神様にお任せするしかないのであろう。
 イエスのお姿を今日(こんにち)、直接見ることはできないが、しかし「神のご支配」は、いまこの時にも、いずれのところにも及んでいると、教会は考えている。ではどのようなご支配であろうか。



安曇野の道祖神

 昔、長野の安曇野を訪ねたことがある。風光明媚な地で、悠然とした時間の流れを感じる体験を味わった。安曇野と言えばわさびをすぐに連想するが、道祖神も有名である。人通りの少ないあぜ道に、ひっそりとたたずむ石の神さまは、実に微笑ましい。日本の心を思い起されたように感じた。
 神のご支配とは、このようなさり気ないものではないかと思う。欧米の立派な教会を見ると、キリスト教の神様は、あのような荘厳で、堅固なところにしか、自身のご支配を示されないかのような印象をもってしまう。
 でもそれは一面的な偏見に過ぎず、むしろイエスの教えはそれとは違ったことに気づかされる。例えばイエスは、エルサレムにあった荘厳な神殿の建築物に拘る人たちを否定され、むしろ足下に咲く草花を指さし、そこに神のご支配があることを弟子たちに説かれた。



神のご支配はいまも
 神のご支配は、人々に恵みとして注がれている。それを体現され、教えでも説かれたのがイエスであった。そのイエスを、今日、我々は直接見ることができない。しかし、そのイエスに注がれていた「神のご支配」を、いま我々が感受することはできるのではなかろうか。
 日々の生活の中で、学校や職場で。道端にもあるさりげない草花の姿においてもそうである。息苦しく、不安や恐れが満ちているこの世界であったとしても、しかし神様のご支配はどこかに注がれている。ただ我々は、道端の草花に目を停めないだけであるように、気づいていないだけである。
 だから、少し立ち止まり、少し周囲を見回すときを持ちたいと思う。意外にも、今まで気づかなかった新鮮な光景に出会うことができるのではないだろうか。そのような新しい気づきをする人は、実は、もう一人の自分がいたことをさらに気づくのである。そこから、また新しい出発が始まるのである。

2007年5月14日

 「教会の花:江戸紫」


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