牧師室より


十字架を偲んで

私と十字架

 教会はいま、イエス・キリストの十字架を偲ぶときを過ごしている。4月8日のイースター(復活祭)前日まで続く。イエスの十字架とは2000年前の出来事であり、しかも日本の地から遥か遠いパレスチナで起こったことである。ゆえに、教会に関係のない方々から見れば、「なぜいま、そして日本人が外国の話しを偲ばなければならないのか」という思いが去来されることであろう。もっともなことである。
 教会を訪ねて来られて間もない方々からも、同様の質問をいただくことが多い。「そもそもイエス・キリストの十字架が、自分とどんな関係があるのでしょうか」と。このように、単に過去の出来事や異国のことに終わってしまい勝ちであるが、しかしそれでは十字架の意味はない。



目の前にある現実

 十字架とは自分が負っている重荷である。あるいは、自分が負わなければならない現実である。人は誰でも生まれながらの十字架を背負う。例えば、生まれながらに何かの病気や障害を負わなければならない幼児がいる。その子供や親御さんたちにとっては、それらは十字架である。どのような家庭、どのような時代、どのような国に生まれるかで、人の人生は随分と異なる。そしてそれぞれに異なった現実の中で生きなければならない。これもやはり十字架である。
 このように言うと、ある特別な人だけが、特別な十字架を負わなければならないように聞こえるかも知れないが、そうではない。確かに十字架の種類や重さは異なっていようが、しかし背負わなければならない十字架は誰にもある。その代表が、人は誰でもいつかは老い、そして地上の生涯を閉じることである。死がそれである。「誰でもいつかは、一人で死ななければならない」という現実を負わなければならない。
 とすれば、十字架とは2000年前に出来事や、遠い外国のお話しでもないことは明らかである。誰もが、生まれながらにわが身に背負わされている重荷であり、負わなければならない現実である。つまり、自分の身近な出来事なのである。ただ私たちが、自分の十字架を忘れているか、それをできるだけ見ないようにしているに過ぎない。



孤独な十字架ではなく
 ただ大事なことは、イエス・キリストの十字架が、私たちのそれぞれの十字架とどう関係があるのかということである。
 ある求道中者から、こういうご質問をうけたことがある。「キリスト教に入っても、病気や苦しみはなくならないのですね」と。他の宗教の中には、「この宗教に入れば、病気や苦しみがなくなりますよ」と勧誘するものがあると聞く。残念ながら、キリスト教はそのようなことは言わない。でも私はこう説明させていただくことにしている。
 「確かに、キリスト教に入っても十字架はなくなりません。それどころか、自分の十字架は負わなければならないことが分かってきます。でも聖書を読むと、自分の十字架は、自分だけが孤独に負っているのではなくて、イエス様が一緒に負ってくださっていることが分かってきます。それに気づくことが最も大事なことだと思います」と。
 十字架はその他にもたくさんある。孤独やいじめ、あるいは家庭や学校で苦しんでいる人がたくさんいる。病気や飢餓、戦争や暴力にさいなまれる重い十字架が身近にも、遠い国にもある。私たち自身も、隣人の十字架を負う手助けを、少しだけ行うことが求められている。

2007年3月2日

 「教会の十字架」


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