牧師室より


新年も悩み多けれど...

除夜の鐘から思うこと

 年末に除夜の鐘を聞かれた方々が多かろう。108回打つ鐘の回数は、煩悩の数を意味すると聞く。年末に際し、新しい年をまっさらな気持ちで迎えるために、煩悩の全てを大晦日の夜に除く(まさに除夜)ことを願い、期待しての儀式である。良くできた仏教の教えだと思う。しかしながら、除夜の鐘を聞いた翌日、つまり新年早々から、相変わらず悩みが絶えないのが私たちの日常ではなかろうか。ああ、悩みは深い!
 イエスも悩み多き人々の日常を、よくご存知であった。だから「何を食べようか、何を着ようかと悩むな」と諭された。そして、「空の鳥、野の花を見よ」と言われた。それらは何も心配せずに、何の具体的な労働もしていないのに、神様が養なっているではないかと、教えられたのである。



「空の烏を見よ」

 「空の鳥」という言葉は、実は福音書によって少しばかり表現が異なっている。ある福音書(ルカ)では、「空の烏(からす)」となっている。漢字では鳥と烏の違いは、一本線の違いだけであるが、印象は随分と違うのではないだろうか。この時期、わが住まいの小さな庭先には目白が毎日やって来て、好物の蜜柑をついばんでいる。「空の鳥」にはこのような小鳥のイメージが伴う。しかし烏は違う。ゴミをあさり、道端を汚くする張本人として嫌われている。見た目も美しくないし、そもそも怖い。とても「空の鳥」のイメージにはそぐわない。
 だから、イエスが「空の鳥を見よ」と言われたのか、それとも「空の烏を見よ」と言われたのか、その違いは大きいと思う。実は旧約聖書の世界でも、烏は汚れた生き物として分類されている。だから、今日の私たちのイメージも、当時のイメージも大して違いはなかったのであろう。
 もし「空の烏を見よ」と言われたのであれば、逆に、イエスが人々に説かれたことの意味は重大だと思う。烏ははっきり言って、私たち人間の目から見れば「価値のない、迷惑な存在」である。しかし「その烏を見よ」、とイエスは言われたのである。神さまの目から見れば、烏も神さまに愛され、価値のある存在だと教えているわけである。



どんな命も、どんな存在も大事なもの
 ところで、烏とはいったい誰を指しているのだろうか。それは私たち自身ではないだろうか。私たちの社会は、人の価値を推し量り、ランク付けしようとする。仕事をこなす量や利益を多く上げたかどうかで(成果主義、能力主義)、あるいは見栄えが良く、高収入を得ているかどうかで、その人の存在価値を決めつけようとする。でもそれは人間の目でしかない。人の命を与えて下さったのが神さまであるならば、人の命と存在の価値は、神さまの目から見ればどれも同じである。それを「空の烏を見て気づけ」、これがイエスの教えであった。
 私たちの誰もが、自分の価値を不安に思い、自分が生きていること(存在)自体に意味を感じなくなることがある。病気の時、競争に負けた時、虐められた時、リストラされた時、気持ちが落ち込んだ時、老いる時、体が動かなくなった時等々である。しかし安心していい。神さまはどんな時でも、どんな人でも、その命を尊び、その存在の価値を認めて下さっているからである。
 そう思うと、空の烏も実に可愛く、いとおしい存在ではないか。今年一年も、空の烏から学びたいと思う。

2007年1月11日

 「教会の木:月桂樹」


最新の「牧師室より」へ