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イエスが座り、12人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたちの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(聖書より;マルコ 10:35〜37)
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頭を垂れる稲穂 |
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このイエスの教えから真っ先に連想する言葉は「謙遜さ」ではないだろうか。自分を他の仲間より能力があることを誇示しようとした弟子たちに向かって、イエスは自らが謙(へりくだ)るように勧め、互いが仕え合うことを説かれた。とはいうものの、今日の私たちが見失い、もはや死語となっているようにさえ思える言葉が「謙遜さ」であるようにも思う。「だからこそ、イエスが弟子たちに勧められた謙遜さを、改めて私たちが思い起こすことは大切ではないか」、これがイエスの教えから私たちが心に刻もうとすることではないだろうか。
秋になり、たわわに実った稲穂からすぐに想起する有名な俳句がある。「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」。誰の句か知らないが、「お金を蓄え、地位が上がれば上がるほど、人は頭を下げるほどに謙虚にならなければならない」という、いわば人生訓である。人生における「謙遜さ」を教えているのは、決してイエスだけではないという思いを抱くのは私だけではないことであろう。
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二つの「謙遜さ」 |
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ところが、「謙遜さ」という意味は、実に注意を要する言葉でもあることに、あるとき気づいた。秋の稲穂に譬えられるように、謙遜さは豊な実りがあることが前提にある。もし稲穂が乏しいモミしか付けず、わずかな実りしかないとすれば、その稲穂は頭を垂れることはない。つまり、謙遜さとは、その人がたくさんの財産を持ち、高い社会的地位に上り詰めていることなしには成り立たない言葉である。少なくとも、他の人よりも何らかの誇らしいものがあることが、前提になければ謙遜さを勧める意味はない。これが稲穂の句の勧める「謙遜さ」である。
イエスの教えもそうだろうか。いや、全然違う。全く違うことに気づく。神様の目は、人の能力や才能の区別はあったとしても、そこに優劣の差別は全くない。イエスの目は、誰もが同じ高さの地面に立っていることに注がれるが、私たちは頭の方の高さの違いの方にどうしても目を向けてしまう。だからこそイエスは、周囲の誰よりも小さい幼児を弟子たちの真ん中に立たせられたのであろう。
人間はどうしても背伸びしたくなる。弟子たちでさえそうであったように、自分の方が隣りにいる仲間よりも、高い位置に頭があることを求めたがる。しかしながら小さな子供が、横にいる友達よりも大きいことや小さいことを気にするだろうか。少なくとも、大人ほどに名誉欲や出世欲はない。だからイエスは幼児たちを指して、「神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)と大人たちに教えられたのであろう。
イエスの教えは処世訓ではない。一角の人に謙虚さを説く道徳でもない。誰もが裸で生まれ、そしていつかは裸で天に帰る者でしかないことを教えている。だから神様の前では、誰もが謙虚にならなければならない。いわば、本当の「謙遜さ」を語っているのである。
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道徳と宗教の違い |
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道徳と宗教の違いが、ここに明らかになっているのかも知れない。京都の哲学者であった西田幾多郎は、道徳に自信を持った人が宗教に入るのは、『駱駝が針の穴を通るよりも難しい』という聖書の言葉を残している。
「道徳に自信を持った人」とは、いったいどんな人だろうか。あの稲穂の句に心を動かされた人のことではなかろうか。実は、変に道徳的である人の方がむしろやっかいである。そこが人生のおもしろさであり、また難しさでもある。変に使命感を持ち、変に自信家である人の方が、実はイエスの教えはまったく理解できない。神様の前では誰も大して偉くもないし、それどころか知恵も力もない幼児の方が、神の国に近いことが分からないからである。西田が残した言葉は、確かにイエスの教えの的を射ている。
謙遜の勧めは、それが「道徳のことば」と受け取られるときに、しばしば人を「自信家」へと育て上げることになる。いま日本の国で叫ばれている「道徳教育」も一歩間違うと、誇りある人間を育てるどころか、「不遜な人間」を作り上げることに寄与することになり兼ねない。そうではない。「謙遜さ」は、宗教、すなわちイエスの教えから聞いてゆかなければならないのではなかろうか。 |
2006年10月9日 |