牧師室より


鈴虫のメッセージ
虫の演奏会

 今年もコオロギが賑やかである。牧師館の外の草むらから、日中も羽をこすり合わせる音が聞こえてくる。今年はそれに加え、鈴虫の音色が加わった。教会の知人から分けていただいたのである。
 「リーン、リーン」と、コオロギとは違った音色が重なり、さながら虫の音のオーケストラの演奏会のように聞こえてくる。虫の音に言葉はないが、しかし秋の到来を告げるメッセンジャーのように思える。「さぁ、収穫の秋だ。実りの秋を楽しみ、そして冬に備えよ」と、古の日本人たちはこのようなメッセージを受け取ったのであろう。しかし現代人の我々は、虫の音から何を感じ取っているのであろうか。もし雑音や騒音にしか聞こえないのであれば、何と寂しいことかと思う。



鈴虫の死の準備

 鈴虫は9月に終わりになると、死ぬ準備をするようだ。まずオスが死に、その屍骸をメスが食べるのだそうだ。現代人の目がすればホラーめいた観があるが、実はそれが自然の営みだ。それこそが自然界の摂理であることを知る。なぜメスがオスを食べるのであろうか。言うまでもなく、子孫を残す産卵のためである。オスの栄養をメスが蓄え、それを地中に卵にして産み落とし、自分自身もそこで役目を終え息絶える。地中に眠る卵は、6月になると新しい生命として孵化するのである。
 鈴虫の短い生涯を見ると、仏教にある「輪廻転生」の教えが身近に感じられるようにも思えてくる。オスのからだがメスに食べられ、それが年を越して新しい命に生まれ変わるような感覚を自然に受け入れられるように感じられる。



神の下へ帰る
 キリスト教の復活の教えもこれと似ているようだ。復活とは、十字架で息を引き取ったイエス・キリストが、三日目に新しい命に甦ったという教えである。但し、別の命へと甦ったのではないから、輪廻転生とは異なることは言うまでもない。しかしそれでも、自然の営みに教えられることが多い。
 日本人の平均寿命は確かに長い。しかし100歳といえども、自然の時間からすればほんのわずかである。人はいつかこの世の生涯を終え、生前の姿を変えて土に帰る。自然の摂理から見れば、鈴虫のひと夏の生涯と大して変わらないのではないだろうか。聖書はしかし人の死を、「神の下に帰ること(帰天)」だと教えている。確かに人は灰になって土に帰るが、それは神の下に帰ることを意味するのである。
 土に帰った鈴虫の卵が梅雨前には新しい命に誕生するように、人も神の下に帰る限りは、その人もいつしか復活をするのである。このように教えられるならば、鈴虫の音は我々に祝福のメッセージを語っているように聞こえるのはないだろうか。だから、人は安心して眠りに着けばよいと思う。

2006年9月6日

 「鈴虫」


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