牧師室より


復活を覚えて・・その二
復活のもう一つの意味

 イエス・キリストは十字架にお架かりになり、この世の生涯を閉じられた。金曜日の午後のことであった。そして三日目の日曜日の朝、死から甦り、新しい命を回復された。それが聖書の伝える、イエス・キリストの復活である。このイエス・キリストの復活は、私たちにも約束されている。これが福音(喜びの知らせ)である。ゆえに、復活は人の死後の出来事に関することであり、将来の希望であると言えよう。でも、それだけではない。
 むしろ聖書が伝えようとしている復活は、将来のことや、私たちの死んだ後のことよりも、もっと大切なことを意味していると思う。それは「いま」のことである。死んだ後のことではなく、むしろ私たちが生きている「いま」、この世のことを語っているのである。



「放蕩息子」のたとえから

 聖書に登場する有名なたとえ話をご紹介しよう。

 ある父親に二人の息子がいたが、弟は問題児であった。弟は、父親が亡くなる前に早々と財産の分け前を貰い、家を後にする。放蕩に放蕩を重ね、その大金を酒と女遊びに使い果たし、ついに一文無しになってしまう。それまで群らがっていた者たちは、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、皆去ってしまった。そこで弟は気づくのである。父親の愛に。
 弟は雇い人として働くことを決意し、父親のもとに帰り、頭を下げようと故郷へ向かう。ところが父親は、毎日外に出ては息子の帰りを待っていたのである。いち早く息子を見つけた父親は、一番上等の服を僕たちに用意させ、肥えた子牛を屠り、息子の帰還を喜び祝ったのであった。(「放蕩息子のたとえ」ルカ福音書15:11〜)

 息子の帰還を祝う父親の次の言葉は実に暖かい。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。つまり、放蕩息子は死んで、新しい息子に「生き返った」のである。これが復活ではないかと思う。



古い自分が死んで、新しく生きる
 古い自分が死んで、新しい自分に目覚め、そして新しい生き方をする。これは将来や死んだ後のことではなく、「いま」のことである。それが復活の大切な意味であろう。
 「古い自分が死ぬ」、これは容易なことではない。でも「放蕩息子のたとえ」から気づくことがある。弟が古い自分に決別できた一番の原因は、父親の愛情であった。父親の愛情がなければ、弟は故郷への帰還を思い立つことはなく、むしろさらに悪の世界に陥ったに違いない。
 弟は日々の生活が余りにも単調で、恵まれていたせいもあり、父親の愛情に気づかなかったのであろう。でもそれは私たちの日々の生活にも言えることではなかろうか。父親の愛情とは、神の愛のことである。それが「たとえ」の本来の意味である。
 神の愛の眼差しは、たとえの父親と同じように、いつも私たちに注がれている。私たちがそれに気づかないだけである。何かのきっかけがない限り、それに気づくことは稀なのかも知れない。でも大切なことは、神はすべての人が神の下へと目を向け、帰ることを願っているということである。その帰る場所の一つの表れが、教会である。一週間に一度、ある人は一月に一度教会へ行く。それが神への帰還である。
 復活とは、神に背を向け、神を忘れていた生き方を止め(死んで)、神に顔を向け、神と共に、イエスと共に新しく生きることである。このような「いま」を再び生き始める人は幸いである。

2006年5月31日

 「紫陽花」


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