牧師室より


復活を覚えて・・その一
不可解な復活のできごと

 教会はいま、イエス・キリストの復活を覚えるときを過ごしている。復活とは、十字架につけられたイエスが、三日目の朝に甦(よみがえ)ったとことを指す。「死んだ人が、どうしてもう一度生き返ることができるだろうか」と、誰もがいぶかしがる話しである。ある者はこれを医学的立場から、「心臓が一度止まっていたのが、蘇生した」と、説明するかも知れない。
 いずれにせよ、不可解で、到底信じがたいことが復活であることに変わりはない。しかしながら、この世には実に不思議なことが他にもたくさんあるように思う。現代科学でも説明できないことがたくさんある。いやむしろ、自然界の仕組みを含め、人間には理解できないことの方が多いと言うできであろう。その意味では、復活のできごとも、最終的には人間には理解しがたい、不思議なことと受け入れるしかないと思う。



自然界の営みから見えること
 ただ、復活のできごとを私なりに考えてみたいと思う。つまり、自らの限界を十分認めつつ、自らの限界の中で復活のできごとを説明することを試みたいのである。
 自然界の営みに目を向けてみよう。秋になると木の葉が色づき、落葉する。一枚の木の葉の生涯は、春に芽吹き、夏に栄養を蓄え、秋に役目を終えることで閉じることになる。この木の葉の生涯を、私たちの人生に譬えることができないだろうか。
 木の葉は限られた時間の中を精一杯生き、そしていつかは終わりを迎え、地に落ちる。ただその落葉はどうなるのか。森に行けば分かる。木の葉は自らの木の下に落ちる。その葉は時間をかけて朽ち、腐葉土となるのではないだろうか。腐葉土は木の根に栄養を吸い取らせ、それが再び新しい芽となる。それが自然の営みである。


神の下に帰り、神の下に眠るかぎり
 一枚の木の葉の生涯は春に始まり、秋には閉じる。しかしたとえ短い生涯は終わろうとも、木の下に落ちる限り、それは再び姿を変えて、新しいいのちとして誕生する。人の生涯もこれと同じではなかろうか。
 人生は、長い人でも100年で終わる。灰となり、塵となり、土に帰る。しかし人が神の下に帰り、そこでひと時の眠りに付くのであれば、いつかは再び新しいいのちへと誕生するのである。これが復活ではなかろうか。
 人は誰でも神の下に帰り、神の下で眠る。自然界の木の葉の営みが示しているように、これが自然なのである。私たちが自然から遠ざかるあまり、自然界の営みを忘れてしまっているように、人間の本来の生涯を私たちは忘れてしまっているに過ぎないのではなかろうか。
 この世でも生が与えられたからには、木の葉のように、神様に守られながら精一杯生きよう。そしてこの世の生涯を終えても、また新しいいのちがある。この世の死で終わりではない。それは神の下に帰り、神の下にしばらく眠るに過ぎないことを信じる者は、まことに幸いだと思う。

2006年5月1日

 「散り終える八重桜の花びら」


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