牧師室より


わたしは「誰」か?
道に迷ったときに

 不慣れな道に迷い込むことがある。しかし便利な文明の利器が助けてくれるようになった。例えばナビゲーターである。車で道に迷い込んだとしても、その利器があれば、自分の居所を瞬く間に知ることができる。携帯電話でも同様の効果が期待できる時代である。自分の居場所、つまり自分が今立っているところが分かったときに、人は安心感を覚えるものである。
 ナビゲーターに確かな情報を提供してくれるのは、天に浮かぶ人工衛星である。迷路に惑ったときに、文明の利器のスイッチを押し、SOSの信号をそこへ発信する。すると信号を受信した人工衛星から、正確な情報が発信されることになる。そして自分が今どこに足を置いているのか知るのである。



聖書というナビゲーター
 人生はしばしば道に譬えられる。道に迷うことが、人生の岐路に立ったときに、どの道を選び取るべきか迷うことに譬えられ、また生き方そのものに自信をなくしたときに準えられる。そのときに、どこに助けを求めるのか? しかしながら、人生にとってのナビゲーターなるものを持ちあせている人が、意外に少ないのではなかろうか。
 もっともこのように考えると、人生の岐路に悩み、あるいは人生そのものに不安を抱かない人にとっては、ナビゲーターなどは必要ないことになろう。例えば、宗教という人生のナビゲーターがある。キリスト教で言えば、ナビゲーターとは聖書になろう。その聖書などは、人生の岐路にある人が読むもので、人生楽しく、平穏に過ごしている人にとっては、まったく必要のないものとなろう。教会そのものが、「悩みのある人が行くところ」という、やや定番めいた結論が出ることになる。


神に問い、神から知る
 ある神学者がこう言った。「人間はただ神からのみ、自らを誰であるか知るのである」と。つまり、人は自分自身のことをよく知っているように考えているけれども、実はそうではないということである。自分が何ものかを知るためには、神に問うしかないという意味である。
 先のナビゲーターで言えば、道に迷わない限り、人はナビゲーターなど必要とはしない。自分が今立っているところが分かっている限り、そのような利器は無用となる。しかし、そうであろうか?それがその神学者の問いである。むしろ、「自分はここにしっかりと立っている」と頑なに主張する人、「自分のことは自分が一番知っている」と強弁する人、そのような人こそが、実は自分が一番見えていないのではなかろうか。
 だから私たちは繰り返し、繰り返し、神に問わなければならないと思う。祈りや讃美を通して、神に向かって発信しなければならない。そして神が語りかける聖書の言葉に聞くことから始めなければならいないのではなかろうか。

2006年2月15日

 「雪の衣をまとった山茶花」


最新の「牧師室より」へ