牧師室より


闇夜が覆うクリスマス
夜に因むクリスマス

 クリスマスは夜に因んだ話しが多い。クリスマスツリーは夜になって輝き、聖夜には欠かせないろうそくの灯火もそうである。サンタクロースもどうやら子供たちが寝静まった夜中にやって来るらしい。これらの習慣は、聖書のクリスマスの記事に因んでいることは言うまでもない。
 聖書を開いてみよう。

[ルカ福音書から]
 旅の途中であったマリアは、予定よりも早く産気づき、急遽ベツレヘムで宿を探さなければならなかったが、しかしどこも満室であった。ようやく探し当てた家畜小屋でマリアはイエスを出産するが、時はすでに夜中であった(2:1〜)。そしてすぐ救い主の誕生は、野宿していた羊飼いたちに知らされた。天使たちはやはり夜中に活躍するようである。

[マタイ福音書から]
 三人の占星術の学者たちは、ユダヤの町から遠く離れた東の国から、救い主としてお生まれになった神の子を拝するために、らくだに乗ってやって来たのだ。夜に輝く星を唯一の道案内としたのであった(2:1〜)。



暗闇に覆われたこの世
 それにしても、なぜクリスマスの話しは夜に因むのであろうか。無論偶然ではなかろう。神の子が夜誕生したこと、そのこと自体に大切なメッセージが語られているのではなかろうか。
 ヨハネ福音書は「光は暗闇の中で輝いている」とも書いている。夜と言わずに、あえて「暗闇」と言い換えていることに、読者は注目しなければならないと思う。夜とは、太陽が沈み、代わりに月や星が輝くという自然現象を意味するだけではなく、それは暗黒の勢力が満ち満ちていることを意味している。闇の世界とは、闇の勢力という意味が含まれよう。あるいは不安や恐れという心理的なことも内包する。そして私たちの今日の社会的出来事を、暗黒という言葉で表現されているように思われる。余りにも暗く、悲しく、辛い事件や出来事に満ちていないだろうか。
 でも、今日の私たちの時代だけが、特別に暗闇に満ちたときなのだろうか。そうではない。イエスが生きた時代もそうであった。いやそれ以上であったのではなかろうか。今日日本の国に、家畜小屋で初めての子を産み落とす母親がいるであろうか。特別な事情がない限り、あり得ないことである。しかし福音書は、そのことが気の毒なことではあったとしても、特別に異常なことであったと記しているようには到底思えない。今日の時代の方がむしろ幸いである。失業率は比べものにならないほど高く、病気や障害を癒す病院も薬も皆無に等しかった。政治的にはローマの属国であり、自由な発言や権利の主張など端からなかった。イエスの誕生の後、すぐに付近の新生児が惨殺されたという事件などは、まさに今日の時代以上の暗黒を伝えようとしているのであろう。


人々を照らす光
 暗黒の姿は今日、イエスの時代とは表面的には異なっている。しかし暗黒そのものが猛威を奮い、人々に多大な苦悩や辛さを強いていることでは、いつの時代も同じである。その意味では、時代や社会の環境・生活形態は変わったとしても、人間の心模様は何ら変わっていないと言えよう。
 ユダヤの国の中に、飼い葉桶に眠る幼児のもとから、暗闇を照らす小さな光が輝いていることに気づいた人々がいた。旅人の占星術の学者たちであり、羊飼いたちであった。オランダの画家レンブラントは、その光景を虚飾することなく、しかし温かみと希望に満ちた光景を見事に描いた。幼児イエスに照らされているヨセフとマリアの横に並ぶ人々の喜びの姿は、レンブラント自身の姿ではないだろうか。
 今日、私たちを照らす幼児イエスの姿を、いったいどこで見出すことができるのであろうか。そもそも、幼児イエスが眠る飼い葉桶は、いったいどこにあるのであろうか。そのことを思い巡らすのが、クリスマスを迎えるため準備の期間、アドベント(待降節)になすべきことだと思う。
 残念ながら、いつの時代も暗闇がなくなることはない。しかし、小さな灯火に照らされ、温もりと確かな希望の光をいただく者は幸いではなかろうか。これが福音書が知らせるクリスマスのメッセージであり、レンブランに代表される数々の信仰者たちの証しである。救いをもたらす飼い葉桶、それを教会においても見出したいと思う。

2005年12月5日

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