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| 宗教改革 |
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随分昔のことのように思えるが、先の衆議院選挙では「改革」が争点になった。郵政民営化という一つの改革に焦点を絞った政党が歴史的な勝利を収めた。閉塞社会に悶々とする多くの国民が、突破口として、さしずめ郵政の「改革」を志向したのであろう。
政治の世界はともかくとして、教会の長い歴史にも「改革」なる声が幾度となく沸き起こった。その代表的なものが「宗教改革」と呼ばれる改革であった。1517年10月31日ドイツの地で、当時修道士であったマルチン・ルターが、95ヶ条なる提題を教会の門に貼り出したことに始まる。どんな歴史にもつきものの、多少脚色めいた伝説ではあるが、基本的には事実であろう。
しかしながら、なぜ「宗教改革」と呼ぶのであろうか。というのは、ドイツの国には宗教と言えばキリスト教しかなく、いわば宗教とはキリスト教そのものを指し、教会と同じ意味を持っていたからである。とすれば、「教会改革」と言った方がよりすっきりするように思える。
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こころの改革 |
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ところで、日本の国に暮らす者にとっては、いずれにせよ縁遠い話しである。「宗教改革」であろうと、「教会改革」であろうと、どちらでもよい話しでしかない。確かにそうである。
ただ今日、私たちの周囲でしばしば叫ばれる言葉に、例えば「こころ」の問題がある。人の傷みが分かる「こころ」、自然を愛する「こころ」、善悪を判断する「こころ」、国を愛する「こころ」という言葉を耳にする。これらの言葉に込められた思いは、「こころの改革」ではなかろうか。今日の日本の国を憂う人々に共通した思いは、「こころの改革」であるように私には思える。 |
神さまの目から |
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ただ、「こころの改革」とは言ったものの、具体的にどうすれば良いのか、その道筋は平坦ではない。ここでもう一度マルチン・ルターの「宗教改革」に戻ろう。ルターの改革をひと言で言えば、「人間の目から神さまの目への転換」であった。つまり、人間はいつも自分の目線でしか物事を見ないし、考えたりしないことにルターは気づいたのである。でもそれでは、箱の迷路を徒に走り回るマウスと何ら変わらない。そうではなくて、神様の視線から物事を考えようとしたのである。そうすると、今までには見えなかったものに出会ったのである。それが「福音」と言うものであった。
もっとも、そのような視点からカルト宗教が生まれたり、偏狭な盲信宗教が誕生することには十分に気をつけなければならない。
でも聖書を手に取ることの意味はそこにあると思う。「こころの改革」を、ただ自分の体験や知識から論じても実りは限られている。神さまの目から、私の「こころ」を見つめ、そして本来あるべき人の「こころ」を考えてみる。ここに「こころ」を語る鍵があるように思う。このような「こころの改革」に目覚めるならば、ルターの宗教改革が身近なものとなって来るに違いない。
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2005年10月27日 |