牧師室より


夢を見るということ
高齢化という言葉の影
 「若者は幻を見、老人は夢を見る」。先日開催された全国の牧師の集まり(これを退修会と呼んでいる)の主題であった。主題に基づいて、若い3人の牧師がそれぞれに自分が考える宣教や夢について語り、最初のセッションが終わった。会が進むにつれて、一人の年配牧師が発言された。「老人の発題はないのですか」と。確かに若者の宣教の夢は聞いたが、引退が間近になった牧師たちの夢をまだ聞いていなかったのである。今日、70歳前の牧師を老人と呼ぶべきかどうかは疑問であるが、「老人は夢を見る」という言葉への配慮がいささか欠けていたことを、参加者の一人として気づかされる思いがした。
 9月19日は敬老の日であった。総務省の統計によると、現在65歳以上の年齢層は5人に一人、10年後には4人に一人の割合になるという。ここから「高齢化社会」という言葉をしばしば耳にする。しかし、高齢化社会という言葉にはあまりよい響きはない。この言葉には必ず「少子化」とか、「高齢者の年金を支える若者が少ない」という言葉が付き纏うからである。どこかに、「高齢者がこれ以上増えると困る」という社会的雰囲気が、蔓延しているのではなかろうか。
 実は教会でも、ややもするとこの雰囲気を感じることがある。それが退修会であったと思う。教会にも高齢者が多いことがしばしば話題となる。つまり教会にも「高齢化社会」が反映されているのであるが、社会と同様に、「若者がいない」とか「教会学校に子供が来ない」という言葉がどうしても付き纏う。だからどうしても教会が宣教を語るときに、教会の将来を担う「若者の伝道」や「子供たちの教育」のことが声高に語られることが多い。無論、若者や子どもたちへの宣教は重要であるが、結果として、高齢者の存在の意義が薄められ、後回しにされているように思えてならない。


還暦からの青春のスタート
 ある作家は、青春は二つあると言う。10代、20代の若者たちが過ごしている最初の青春がある。しかし二度目の青春があるらしい。年齢的にいえば、還暦がそれに当る。
 還暦とは、60歳で人生は元に戻るという意味である。還暦には赤いチャンチャンコを着る習慣があるが、それはもう一度赤ちゃんに戻るという意味から来ているらしい。つまり、還暦はゼロからの再出発をするということである。だから還暦を迎えた人は、二度目の青春が始まるというのである。厳しい冬を何度もくぐり抜けてきた人だけが味わうことのできる青春。これが本当の青春であるとその作家は書いていた。
 とすれば、二度目の青春の条件は何か? 作家の問いはさらに続く。それは「夢」だと言う。自分の夢がある人は、二度目の青春を謳歌できると断言する。逆に言えば、いくら年齢的に若くても、夢がなければもう立派な老人ということになる。夢の持ち方で、たとえ80歳でも青春のただ中にいることになり、20歳でも老人ということになる。


夢を見る
 では夢とはどんな夢であろうか。それは一攫千金や名声を目指す夢などではない。自己実現の夢であれば、せめて最初の青春で十分であろう。再出発の青春が見る夢は、神さまが注がれる霊を見る夢である。神の霊は肉眼の目ではなかなか見えない。だから夢として見なければならないのであろう。
 先の作家は、誰の心の中にもある、いわば「心のアンテナ」が必要だと言う。最初の青春で体験した厳しい冬をくぐり抜けたからこそ培われた心のアンテナが、新しくスタートした第二の青春では生かされるに違いない。これまで聞こえてこなかった偉大な人々の声があり、市井の声もある。大自然からの壮大なメッセージがあり、足下に咲く草花や虫の音からの小さな声がある。そして、誰一人として差別されることなく注がれている神の愛のまなざしがある。
 夢を見るとは、これまで見えていなかったことを見つめ、聞こえていなかった声に耳を傾けるとことである。神はいつの時代も人々にご自身の愛を注がれ、語ってこられたに違いない。だがいつの時代も、それらを心のアンテナで受け取った者は稀であった。その稀な一人がイエス・キリストである。そうでなければ、「野の花を見よ、空の鳥を見よ、そこに神の愛が余すこととなく注がれているではないか。とすればあなたがたは、なお更のことであろう」とは言われなかったと思う。イエスご自身が、神の注がれた霊を受け止め、夢を見た方であったに違いない。
 敬老の日、特別な行事もプレゼントを本来重要ではないと思う。すべての方々に聖書のみ教えをお届けできればと願っている。夢を見る人は幸いである、そこには新しい青春が備えられていると。

2005年9月26日

 「礼拝堂の花」


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