牧師室より


「さわやかな声」が聞こえていますか
コオロギの声
 暦はすでに秋に入った。残暑の厳しい毎日であるが、秋の気配を感じるようになって来た。日の沈むのが随分早くなってきたように感じる。そういえば、夜のコオロギの鳴声も次第に大きくなってきているようだ。足下にも秋の準備の始まりを知らせる「声」があることに、改めて気づかされる。「東京には自然がない」といわれるが、実は意外に自然の「声」が足下にある。そのことに私たちが気づいていないだけに過ぎないのかも知れない。
 私たちの日常はどちらかといえば、「ない」ということに思いが傾いているように感じる。「あれがない、これがない」、「あれが足りない」とばかりに、「ない、ない、ない」と。「東京には自然がない」、でも池袋にでさえコオロギの鳴声が聞こえている。


ある「詩」から
 中村久子という方がいた。「中村久子」で検索すれば、ホームページでたくさんの情報を得ることができる。便利な世の中の有難さを感じる一面であるが、中村さんは病気のゆえに幼いときに手足(精確には手は指がない)を切断された方である。しかしそのハンディを大変なご苦労の後に、次第に克服された方である。その中村久子さんが残した詩がある。知人を通して知った詩であるが、それをご紹介したい。

「ある ある ある」
  さわやかな秋の朝
  「タオル 取ってちょうだい」
  「おーい」と答える良人がある
  「ハーイ」という娘がおる
  歯をみがく 義歯の取り外し かおを洗う
  短いけど 指のない まるいつよい手が 何でもしてくれる
  断端に骨のない やわらかい腕もある
  何でもしてくれる 短い手もある
  ある ある ある
  みんなある
  さわやかな秋の朝



「さわやかな声」
 「ない、ない、ない」ではなく、「ある、ある、ある」が手足のない中村久子さんの生き方であった。中村さんの詩とその生き方は、すべてのものを当たり前と思い込み、あるものに感謝することを忘れ、いつも「これがない、あれが足りない」と不満を語る私たちの日常に、警鐘を鳴らす「さわやかな声」ではなかろうか。
 中村さんはクリスチャンではない。仏教に学んだ方であるが、それは大きなことではない。なぜなら聖書のイエスが教えていることは、これと同じだからである。
 「さわやかな声」は大自然の営みを通して、ある人の詩を通して、そしてイエスの声を通して私たちの耳元に届いている。それに聞く心を持ちたいと思う。

2005年8月22日

 「芙蓉(牧師館)」


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