 |
| 日本の幼子の遊び |
 |
民族学者の柳田国男は日本の幼子の遊びを三つに区分した。「内の遊び」「外の遊び」、そしてその中間に「軒遊び」を置いた。
幼子はまず家の中で遊ぶ。次第に成長し、今で言う公園デビューなる外での遊びへと移行する。でも内からすぐ外へ向かうことはできない。幼子にとっては、家の中で安心して遊んでいた温室から、突然厳しい社会へと放り出されるようなものである。恐れと不安がたくさんある。だから内と外の中間の「軒下」で遊ぶことで、幼子は社会に出るための準備をする訳である。
軒下で遊ぶ幼子は、外の様子を伺いながら不安を抱きつつも、家の中にいる母親(もちろん父親も)の姿を見て安心する。たとえ姿は見えなくとも、家の中で忙しく働く母親の足音や声を確認するだけで安心するのである。その繰り返しを経て、幼子はいよいよ外に踏み出す勇気を獲得する。この軒遊びが、日本の子供たちの成長にとって、実に重要な役割を果たしてきたのであろう。 |
軒下遊びの欠落 |
 |
ある専門家たちの中には、最近の若者たちの引きこもりの原因に一つに、この軒下遊びの欠落を提唱する者がいる。誰でも社会に踏み出すときには不安を覚えるものである。しかし何とか足を踏み出す。ところが引きこもってしまうからには、社会や人間関係に対する不安がことさら大きいのである。どこかに、幼子が軒下で内にいる母親や父親の存在を確認して安心できるようなものがあれば、きっと外に向かう勇気が具えられるのであろう。
しかしよく考えると、いま軒下にあたる空間が各家にあるだろうか。都会では、稀有といってよい。ゆえに軒下遊びなるものは、恵まれた人だけの悠長な話しになる。また、比較的軒下がきちんと具えられていると思われる地方にあっても、引きこもる若者がいないとは言えない。ここに現代社会が抱えている複雑な問題がある。 |
教会という軒下 |
 |
ただ家の作りは別として、我々は誰もが、どんな年齢になろうと、「軒遊び」に代わるものを必要としているのではないかと思う。外の社会からしばし軒下に逃れ、そこで休息するのである。しばし時間と外の社会での煩いを忘れ、そこで遊び、戯れるのである。不安を覚える者は、軒下の奥には、母親や父親的な存在がいることを確認し、そこで安心感を覚えることができる。ある者は少しゆっくりと休息し、ある者はしばしの休息でまた外へと出かけて行く。その意味で、軒下遊びは、休息と時でもあり、再び外に向かうための具えのときでもある。
私たちの生活に、このような軒下があるであろうか。軒下遊びをする時間と空間が余りにも乏しい、これが私たちの実態ではなかろうか。ただ教会はその一つの形であると思う。週に一度、日曜日に教会という軒下に集まり、そこで神と遊ぶ。教会の奥では神の声(聖書の言葉)が聞こえる。それを聞いて、私たちは安心する。現代人が忘れている「軒遊び」を、もう一度思い起こしたいと思う。 |
2005年7月21日 |