牧師室より


「引き算」の勧め
富良野の夜空
 七夕が近づいた。しかし東京の空からは、天の川は見えない。先日北海道の富良野を訪れた。ラベンダーの花に埋もれた町並みを見るには少々早すぎたが、しかし久しぶりに見事な星空を眺めることができた。宿泊したホテルから少し足を延ばし、できるだけ照明の届かないところに立った。真っ暗な人気のないところからの眺めは最高であった。
 東京の空からは、なぜ星が輝いて見えないのであろうか。まずおびただしい照明の所為であろう。自分も照明を照らし続けている一人であるが、不夜城とも呼ばれる池袋の町はなお更である。空気の汚染も考えられる。空気中に浮かぶ排気ガスや粉塵が視界を遮っている。そのような照明や空気中の塵を一つ一つ取り除かなければ、天の川に出会うことは難しい。


金持ちの青年の願い
 神の国(天の国)もこれと同じであろう。神の国がまさに天にあるのか、宇宙の彼方にあるのかは、いつの時代も誰も知らない。そこで金持ちの青年がイエスに質問した。「永遠の命を得るにはどうしたらよいでしょうか」と。もっとも、この青年は不遜な金持ちだったのではない。搾取することなく、不倫することもなく、両親を敬う模範的な青年であった。いわば非の打ち所のない好青年だったのである。とすれば、間違いなく神の国に入れるはずであったが、でも不安だったのであろう。だから青年は「あと何が欠けているでしょうか」と尋ねたのである。そこでイエスは、「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われが、この勧めに青年は肩を落とし、イエスを背にするしかなかった。
 この勧めを早読みすると、貧しい人々に施すようにという「慈善の勧め」のように思えるが、それが第一ではない。その前に大事なことは、「自分の持っているもの売り払う」ということである。
 私たちは、「足し算」する思考に慣れすぎているのではなかろうか。あれが欲しい、これが欲しいと願い、あれが足りない、これが足りないと嘆く。隣の芝生を眺めると羨ましくなり、自分の庭にも足りないものを植え込もうとする。金持ちの青年も同じだったのではなかろうか。


イエスの算術
 しかしイエスの勧めはまったく違った。足し算ではなく、引き算の勧めである。持ち物を売り払うとは、削ることに他ならない。私たちはより快適で、より幸いになるために、ただひたすら足し算をしているのではなかろうか。ひたすら経済成長を追い求め、企業はできるだけたくさんの物を作り、消費者はそれをできるだけ消費するという社会が、当たり前になっている。経済の仕組みは私には分からないが、ただはっきりしていることは、日本に暮らす人々のほとんどが、いまの社会に不満と不安を抱き、幸せとは思っていないということである。
 幸せはどこにあるのか。神の国は、あと何をすれば見出すことができるのだろうか。金持ちの青年がイエスに尋ねたことは、金持ちの国、日本に暮らす私たちの問いでもある。
 イエスはまず、「持ち物を売り払いなさい」と言われた。持ち物とはいったい何であろうか。それは身にまとっている総てではなかろうか。財産やお金ももちろん持ち物ではあるが、それだけを指すのではない。テレビやラジカセの音があり、携帯電話やパソコンによる洪水のような情報がある。尽きない欲望があり、自分のことしか考えられないエゴがある。不満があり、不安や怒り、中傷もある。これら総てが私たちの持ち物である。


神の国、幸いに出会うために
 イエスはさらに、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われた。身に着けている余計なものを削らない限り、神の国、すなわち「幸い」に出会うことはない。持ち物総てを売り払い、すっからかんで暮らすことはもちろんできない。でも余りにも行過ぎた「足し算的考え方」は、どこかで見直さなければならないのではなかろうか。
 お金を溜め込むことよりも、他の人と分かち合うことで、自分が幸いな気持ちになることがある。自分の時間を他者のために割くことで、自分が満たされることもある。テレビやCDの音を消して、静かに目を閉じることで、日頃聞こえない「音のない声(神様の語りかけ)」が聞こえ、喜びに満たされることもある。神の国、すなわち幸いは、何かを削り、何かをしばらく止めることで、意外に近くにあることに気づくものではなかろうか。富良野の見事な星空は、実は東京の上空にもある。おびただしい照明や空気の汚れを一つ一つ取り除くならば、天の川を見る幸いを体験できるであろう。神の国に出会う幸いはもっとそうに違いない。

2005年6月28日

 「どくだみ」


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