牧師室より


鯉のぼり
ある光景
 5月の連休も終わった。それぞれの休息の日々があったことであろう。人込みに出かけることの嫌いなタイプは、連休中も行楽地へ出かけることもない。要するに「ものぐさ」である。私もその一人であるが、近隣を散歩するにとどまった。
 日ごろ自転車で慌しく通り過ぎている光景も、散歩してみるといつもと異なって見えるものである。昔風の古風な家を発見したり、手入れされた庭の草花に家主の心を感じたりする楽しいひと時であった。
 アパートのベランダにいくつかの鯉のぼりも目にした。子供の健康と成長を願う若い親御さんたちの心が伝わってくるように見えた。


風の話し
 鯉のぼりは無風のときには眠っているように見える。風を受けて始めて生き生きと泳ぎだす。この日は無風の穏やかな天気で、鯉のぼりは昼寝のときに見えた。
 聖書に中にもよく風の話しが出てくる。湖で突然激しい風が吹き、舟にいた弟子たちを大いに悩ましたことがあったとあるし、土台がしっかりしていないために、いとも簡単に風に吹き飛ばされてしまった愚か者の家の譬えもある。また聖書では風は、空気とか霊、息とも訳すことのできる言葉である。
 例えば、人はもともと土で作られた人形のようなものであったが、神さまが命の息を吹き込んでくださることで、生きるものとなった天地創造の物語には書いてある。手塚治の鉄腕アトムや童話ピノキオなどは、この物語をヒントにしたものであろう。


神様の息をいただいて
 日々私たちは生きている。でも「生き生きと」生きているだろうか。いやそんな大袈裟なことは言わないにしても、小さな幸いを味わいながら生きているだろうか。私が目にした鯉のぼりのように、まるで眠ったように、生き生きと泳いでいるとは到底いえないような毎日を送っているのではなかろうか。
 だから私たちも風をいただかなければならい。鯉のぼりがたくさんの風を口から取り入れ、元気よく泳いでいるように、私たちも神様からの命の息をいただくことで、日々新しく、生き生きと生きることができる、それがイエスの教えである。
 教会はしばらく神様の息を覚えるときを送ることになる。神様の息は、イエスの教えとして、言葉となって私たちに吹き込まれようとしている。その息をたくさんいただきたいと思う。

2005年5月9日

 「教会の庭のタンポポ」


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