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| それぞれの復活の記事 |
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「イエスが十字架の死から三日目に甦った」という復活の記事は、4つのそれぞれの福音書で異なっているところがある。その1つが最初の復活の証人についての記述である。例えばこんな具合である。
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| マタイによる福音書: |
マグダラのマリアともう一人のマリア(2人) |
| マルコによる福音書: |
マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ(3人) |
| ルカによる福音書: |
マグダラのマリア、ヨハナ、ヨコブの母マリア、その他の婦人たち(5人以上) |
| ヨハネによる福音書: |
マグダラのマリア(1人) |
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困ったものである。どの福音書の記していることが事実なのか、その判断は今日の私たちにはできない。ただ4つの福音書が共通して記している女性がいる。マグダラのマリアである。 |
マグダラのマリアとは? |
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実に謎めいた女性である。そもそも、これほど誤解されて教会で語り継がれてきた女性もいない。例えばマグダラのマリアといえば、「かつて娼婦であった」というイメージが先行する。カトリックの作家であった遠藤周作は『聖書の中の女性たち』で、マグダラのマリアの過去を悔いた心情を巧みに描き、その罪を赦したイエスの慈愛に満ちた姿を浮かび上がらせることに成功した。そのマグダラのマリアは、かつて娼婦であったことが前提となっている。
でもこれは聖書の記述からは逸れた理解である。ルカ福音書に続けて登場する二人のマリアが、いつの間にか同一人物と誤解され、言い伝えられて来たことが原因だと言われている。
もう少し飛躍すれば、この謎を含んだマグダラのマリアは、イタリアの画家の巨匠「レオナルド・ダ・ヴィンチ」にも影響を与えたようだ。空前の話題作となった推理小説『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン:2004年日本語版)はそれが題材となっている。ダ・ヴィンチといえば「モナリザ」が有名だが、教会に連なる者にとっては「最後の晩餐」はさらに重要である。テーブルの中央にいるイエスの右横にいる弟子はヨハネとされているが、何やら女性らしき姿をしている。それはマグダラのマリアを暗示しているからだというのが、小説の「売り」の一つである。さらには、実はイエスはそのマリアと結婚をしていたというストーリーは、信仰を持つ者には衝撃的である(こういう説は以前からあったのではあるが)。 |
聖書のマリア像が伝えていること |
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では私たちはマグダラのマリアをどう理解すればよいのであろうか? 聖書に記されたマグダラのマリアをもう一度拾い上げてみよう。そして気づくことが一つある。それは何ら特別な女性ではなかったということである。もちろん、芸術家や作家が想像力逞しくマリアを描くことは自由であるし、新鮮なマリア像を信仰持つ者も楽しむことに何も問題はない。でも聖書の記者たちが伝えようとしているマリア像を見失ってはいけない。明らかにマグダラのマリアは、私たちと何ら変わらない「凡人」である。
いやこう言えるのかも知れない。凡人であるゆえに、自分の力に過信せず、健気に神への信仰を頼りとし、イエスのもとからも離れようともしなかったと。イエスの後に従い、十字架で息を引き取るときには最後を見届け、墓に葬られた後も当時あった葬儀の仕来りを全うした。
そこに見えるのは誠実な姿である。人に教え、指導するような勇ましい姿ではなく、謙虚に、目立つことなく、神と人に仕え、そしてただ復活の事実のみを伝える姿である。このような「凡人」たちを、イエスは特に愛されたと言うことは許されよう。とすれば、マグダラのマリアとは、「凡人」である私たちの姿を映し出しているのであろう。イエスの復活の知らせは、一人の「凡人」から広まった。今日、福音の知らせも、取るに足りない私たちから広がって行くことが期待されている。 |
2005年4月11日 |