牧師室より


神に嘆く
サラリーマンの愚痴
 日々の生活を振り返るとき、自分がいかに多くの嘆きを抱えているかに気づかされる。何を着ようかと朝に悩み、何を食べようかと昼食の店探しに悩むこともある。山積みの仕事に嘆き、成果の上がらない自分の働きに嘆くこともある。人生に悩みは尽きない。些細な悩みから大きな嘆きまで、それを持たない人はきっとこの世には存在しないことであろう。
 嘆きを負ったときに、人はどうしているのだろうか。あるサラリーマンは、嘆きを愚痴るために、酒場へと向かう。ガード下の赤ちょうちんが、仕事帰りのサラリーマンらしき人々で賑わっている光景を目にするときがある。安らぎのひと時と聞く。カラオケに向かう人もいよう。それらは、仕事や職場の上司や仲間のことを愚痴ることのできる、唯一の場所なのかもしれない。


愚痴を言える人がいますか?
 子供たちにも悩みがあり、嘆きがある。いまの子供たちは、どこで愚痴ることができるのだろうか。赤ちょうちんへ向かうことはできない。友達かも知れない。いや家庭かも知れない。でも上手に友達を作れず、孤独な家庭に育っている子供たちは、嘆きを愚痴られる人がいない。子供や少年犯罪を耳にするたびに、このような背景を想像してしまう。
 子供たちに限らず、いまの私たちには、嘆きを愚痴ることができる人がどれほどいるのであろうか。自殺者を毎年3万人数える私たちの国は、この問いが投げかけられている。人ごとではない。嘆き、悲しむことから人は逃れることはできないが、大切なことは、嘆きを愚痴られる人がいるかどうかではなかろうか。


イエスも嘆かれた
 イエスも実は嘆かれた。しかもその嘆きは深刻であった。理不尽な死の苦しみを負わされたからである。十字架の上でイエスはこう叫ばれた。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
 愚痴と言うには相応しくないほどの大きく、深い嘆きをイエスも体験されたのである。この断末魔の叫びは、実はもう一つの意味を私たちに与えているのではなかろうか。それは、深い嘆きを味わっているときには、その悲しみや辛さを訴えることのできる方がいることの大切さである。いわばイエスには、大きな愚痴を聞いてくれる方がいたということである。
 悲壮な死を遂げたイエスであったが、そのイエスは再び新しい命を得てゆく。嘆きを打ち明けられる方を見出す者は、新しい自分に作り変えられてゆく。十字架の後に迎える復活(イースター)はこのことを教えている。

2005年3月18日

 「教会の礼拝堂」


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