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| 春を前にして |
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暦はすでに春を迎えた。朝夕の冷え込みはあっても、日差しが随分強くなり、日没時間も遅く感じるようになった。春は近づいている。教会にある八重桜の蕾も、心なしか大きくなってきているように見える。大自然の営みは不思議で、誰が教えることも無く、まさに「自然に」、春に咲くための準備を怠ることなく、間違うことなく行なっている。
教会にも固有の暦がある。クリスマスを迎えるための準備が暦の始まりである。そしていまは、イースター(復活祭)を迎えるための準備の期間に入っている。イエス・キリストが十字架に掛かられたことを特に覚えるのである。
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民族、時代を超えるもの |
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十字架のペンダントやアクセサリーを身につける人は日本の国にもたくさんいても、十字架の意味を考える人は少ないのかも知れない。それも無理はない。イエス・キリストの十字架について考えるには、あまりにも距離がありすぎる。イエスがお生まれになったイスラエルの地は余りにも遠く、しかも2000年前の話しである。日本で言えば、弥生時代の話しである。あるいは、日本には日本固有の宗教があると、距離を置きたがる人も多いに違いない。
しかしながら、国籍や年代の違いはあったとしても、どの民族にも、いつの時代にも共通して存在するものがあるのではなかろうか。それは、人は何がしかの苦悩や煩いを抱えて生きているということである。背負いきれない重荷を担わなければならないことが、誰にでも起こりうる。そして、その苦悩や重荷を誰かに少しでも負って欲しいと願っているのではなかろうか。 |
イエスの十字架の意味 |
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いつの時代も、誰もが負っているものを、教会では「十字架」と呼ぶ。イエスは丘の上で死を遂げる前に、ご自分の十字架を背負わされ、沿道を歩かされたと聖書は記している。「自分の十字架を背負う」とはここから来た言葉である。でも聖書はさらに問う。「イエスが背負われた十字架は、誰の十字架だったのだろうか」と。そして「それが、いまあなたが背負っている重荷ではないか」と。
自分がいま背負っている重荷を、魔法のようにイエスが代わって負うことはない。そのような奇跡を信じるように聖書は求めていない。でもこの問いかけに心を響かす人は、自分の苦悩や思い煩いは、自分一人で、孤独に負うべきものではないことに気づかされるに違いない。イエスが共に、その十字架を背負って下さっていることに。
イエスは十字架にお掛かりになるまえに、弟子たちにこう言われた。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 |
2005年2月18日 |