牧師室より


足下にある幸いを求めて
年賀状から
「60歳代までは大空を仰いで歩けましたが、古希を越した頃から少しずつ地球だけを見て歩くようになり、最近ではその姿が日常となってしまいました。だが、そのお陰で庭の小さな雑草までが神様の創造の技と美の神秘を語っているのに気づきました。」
 新年にいただいた年賀状である。思わず微笑んでしまった。確かにそうかも知れない。人は誰でも年齢を重ねるごとに身体が曲りはじめ、いつしか下向きの日々の生活が始まる。でもその生活から、これまで見えていなかったものが見えはじめ、しかもそれは実に恵みの体験であるという。まさに老賢者の含蓄ある言葉であり、少しばかり飛躍すれば、アニメの宮崎峻のメッセージにつながるのかも知れない。


クリスマスの教え
 すでに新年を迎えたが、教会はいましばらくクリスマスの余韻に浸るときを過ごしている。イエス・キリストの誕生を三人の占星術の学者たちは、ただならぬ輝きを放つ星から悟ったと聖書には書いてある。彼らは大空を仰いで生きてきたのであろう。でもその神の子が、どこに生まれたのかは知らなかったのである。当時の預言書の専門家たちから、ベツレヘムという辺境の地であることを知らされなければならなかった。
 彼らは大空を仰ぐこと止め、今度は地球の足下を見ながらの旅を再開するのである。そしてこれまで誰も注目もしなかったような辺境の地で、しかも家畜小屋に眠る幼子イエスに出会うことが出来たのであった。


足下にある神との出会い
 クリスマスの物語は、実は私たちの生涯を描いているのではなかろうか。大空を仰いで生きる年代もあり、地面を見つめながらの年月をいつかは迎える。それが人の生涯であろう。若いときでも胸を張って希望に輝いている時があり、落ち込んで下向きのときもある。
 神との出会いはそのいずれにも起こる。しかし人は神との出会いを求めて山に登り、太陽を拝み、星空に夢を託すことが普通であろう。でもむしろ、自分の足下にこそ神の恵みが備えられていることを聖書は教えようとしている。ただそのことに気づかないだけである。
 新しい年が始まった。すべての人々、国々、民族の幸いを祈りたい。まずは足下にある幸いに出会う日々から始めたいと思う。

2005年1月6日

 「今年もやって来た目白」


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