牧師室より


子どものこころ
いたいけな子どもの幸を祈って
 毎年紅葉の盛りのころに、千歳飴を地面に引きずるかのように手に持った子どもを目にする。七五三の微笑ましい光景である。和服に着飾った家族の光景を今年も幾度も目にした。幸せそうな光景がいつまでも続くようにと、陰ながら祈らせていただきたい気分に浸ってしまった。
 教会でも七五三ならぬ、子どもの祝福式をこの時期に行っている。いたいけな子どもたちを見ながら、子どもたちの将来を想い、幸福な人生を神に祈り願うのは自然の感情であろう。そんな思いを込めて子どもの祝福式を行うことは、教会であろうと、神社の七五三であろうとも同じに違いない。


弟子たちの誤り
 聖書には、イエスが子どもたちを祝福された話しがしばしば登場する。それらの記事を読むときに、イエスの言葉には、我々が当然のこととして考えている祝福と、少しばかり異なったことも含まれていることに気づく。すなわちイエスは、いたいけな子どもたちの将来を覚え、幸多からんことを神に祈っただけではなかったのである。
 イエスにまとわり付くかのようにやって来た子どもたちを、弟子たちは邪魔者扱いにし、追い払おうとした。「お前たちには、神様のことはまだ早い」とばかりに。ところがイエスは弟子たちの行為を叱るのである。「神の国はこのような者たちのものである」と。それは、むしろ幼い子どもたちの方が、神の国に出会っているという意味であろう。


神の国は大人には見えにくい
 神の国は大人にはむしろ見えにくいのである。子どもより大人の方が知恵に優り、力も強く、生きる術を知っている。しかしそれらの知恵は、神と出会い、神の国を発見しようとするときに、邪魔となり災いとなることが多い。子どもにはそんなこの世の知恵はない。でも素直さがある。もし自分の命が神様によって創られ、いまも守られていることを、大人が正しく教えるならば、子どもはそれを一点の曇りもなく信じるこころを持っている。イエスは子どもたちのこころを讃えたのである。
 とすれば、子どもの祝福式は単なる子どもの幸いを祈る式ではない。むしろ大人の我々が子どもから学ぶのである。子どものこころを思い起こし、そのこころを大切にすることを学ばなければならないのである。
 晩秋になると都心からも富士山が見通せるようになって来る。ところが春から夏にかけては富士山は全く見えない。これと同じではなかろうか。神も本当に存在するのに、夏の汚れた空気のように視界を遮るものがある限り神は見えず、神の愛に気づかない。我々が浸りきっているこの世の知恵は、しばしば神に出会う視界を遮っている。そのような覆いを被りながら我々は日々生きていることに気づきたいと思う。とすれば、七五三はむしろ我々大人のためにあるとも言わなければならないのであろう。

2004年11月17日

 「教会の秋の花」


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