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| 日本の8月 |
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猛暑の続く8月は、日本の国にとって特別な意味を持つ。広島と長崎に原爆が投下された月であり、太平洋戦争が終わった月である。戦争には様々な側面がある。原爆を投下されてたくさんの人々が命を奪われた。日本人だけでなく、強制的に日本に連れてこられた隣国の人々も被害にあった。いわば被害者としての側面である。しかし他面では、日本軍がアジアの隣国を支配したという加害者の面も持つ。戦争のために尊い命を捧げた兵隊たちはもとより、彼らの遺族たちは戦争の被害者であるが、日本軍によって命を奪われた隣国の人々にとっては日本の兵隊は加害者となる。
この両方の側面を考慮することなしには、過去の戦争を語ることはできないし、首相の靖国神社参拝の問題も論じることはできないのであろう。 |
宗教が平和に貢献しているか? |
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どこの国の人々も平和を願っている。でも不思議なことに、この地球上で戦争が止んだときはない。いまこの時にもイラクの国で、パレスチナ地域で、あるいはどこかの国で戦火が交えられている。でもこの地域の人々は、平和な国に暮らす我々以上に平和を求めているはずである。しかし平和はいまだ実現せず、しかも将来は決して明るくない。なぜだろうか?
その原因は根深く、単純ではない。ただその原因の一つに、宗教の存在を見ることができると思う。本来宗教が、対立する民族や人々の憎しみと怒りを鎮め、和解への道を目指すことに貢献すべきところが、かえって宗教間の対立が怒りを煽っているかのように見える。キリスト教会とて例外視することは許されないであろう。日本のキリスト教会も戦火の渦に巻き込まれたときに、どれほど平和のために貢献できるのか、その保証はどこにもない。 |
信仰より愛の心を |
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使徒パウロは聖書の中でこういう言葉を記している。
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
(コリントー13:13) |
信仰も希望ももちろん大切である。でも一番大切なものは「愛」であるとパウロは教えている。誤解を恐れず言えば、それぞれの宗教の教えや教理を信じること(信仰)以上に、他者を愛することがさらに大切だということであろう。どんな宗教でも、「愛」を第一に置くことを忘れるならば、きっと深刻な過ちに陥るに違いない。
愛とは、自分や身内だけでなく、他者に配慮するということある。イエスの教えによれば、他者の痛みや悲しみに「憐れみの心」を持つこと(ルカ10:33)である。身内の悲しみや、自国の痛みもさることながら、隣人や隣国の人々の辛さに「憐れみの心」を動かし、配慮してゆくことである。
そういえば、今日互いが道を譲り合うことが少なくなり、謙遜さが軽視され、謙譲語を使うことさえも忘れ去れようとしているように思う。実は、日本人が古来大切にして来たこのような「心」は、聖書に記された愛の心、憐れみの心、配慮する心と同じ意味を持っているのではなかろうか。
世界の平和を語る前に、身近なところから平和を作り出すことが、いま求められているのかも知れない。そして身近なところにある平和を大切にする人は、きっと世界の平和のために小さな貢献を始めてゆくに違いない。 |
2004年8月12日 |