牧師室より


魂が息苦しくありませんか?
 涼しい風を感じなくなって久しい気がする。都会の風は生暖かく、自然の涼風はない。地球規模の温暖化も手伝い、真夏を前にしてすでに寒暖計はうなぎ登りである。エアコンに手軽にスイッチを入れることが、自然の涼風を消滅させるという悪循環を作り出しているのであろう。
 聖書も風について記している。神の国の教えを請うた老人ニコデモにイエスは、「風は思いのままに吹く」と答え、神の働きは風のようなもので、人間にはそもそも計り知れないことを教えられた(ヨハネ3:1〜)。神の働きも風のように気ままに吹き、私たちの知識や感覚の中に閉じ込めておけるようなものではないという意味であろう。とすれば、涼風を感じなくなった現代人は、そこから神の働きさえも感じることができなくなっているのかも知れない。


魂も息をする
 聖書では、風は空気と同じ意味を持つことがある。つまり、風は空気と同じである。私たちはその空気を体の中に取り入れ生きている。新鮮な空気を体に取り入れることによって、健康を維持する。しかし自然界の空気は汚れ、人々の慢性的な病気の一因を作っている。
 では私たちの魂はどうか。魂も実は息をしているのではなかろうか。新鮮な空気を取り入れようと息をする。その魂にとっての空気とはいったい何であろうか。私は神の言葉だと思う。聖書の教え、あるいはイエスの教えと言ってもよい。神の言葉を通して、私たちは神の働きを感じ取るのである。
 しかしながら私たちの周りには、たくさんの別の言葉に溢れ、情報が洪水のように押し寄せている。それらの言葉はしばしば汚れ、魂は窒息しそうである。魂こそが今日、新鮮な空気を求め、安らかな息をすることを求めているのではなかろうか。


少しだけ勇気を出して
 ではどうすればよいのか。現代人の多くが心と魂が窒息しそうになり、新鮮な空気を求めていながら、しかしどこへ行けばよいのか分からず、途方に暮れているのではなかろうか。だからこそ私はこう思う。教会の門を叩いて欲しいと。そこでイエスの教えに耳を傾けてみようではないかと。迷いが一気に雲散霧消すると言うつもりはない。しかし、何か一筋の光を見出すに違いないと思う。その光はどんなに小さく、どんなにかすかなものであったとしても、それを見出すことこそが重要ではないかと思う。
 自分が最初に教会の門を叩いた経験からも察するように、教会の門を潜ることは勇気がいる。でも少しだけ勇気を出して欲しい。きっと自分が躊躇したことが意味のないことであり、教会の中は想像していたものと随分と異なることに気づかれるに違いない。

2004年6月29日

 教会の花:紫陽花


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