牧師室より


あなたの「やさしさ」
ある詩から
わたしは傷をもっている
でもその傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる
 星野富弘さんの詩である。中学校の体育の教師だった星野さんは、子供たちに模範演技を見せようとして跳び箱を飛び、事故に遭ってしまった。それ以来、手足を自由に動かせない重い障害を負うことになる。星野さんにとっての傷とは、もちろん体の傷のことであろう。でも星野さんは体の傷を負う体験から、自分自身の中にもう一つの傷があることに気づいたのである。それは「こころの傷」とでも言うべきものではなかろうか。
 体の傷はすぐに眼につくが、こころの傷は表面的には見えない。健康そうに見える人であっても、こころの傷までを察することは難しい。でも、こころの傷なるものは誰でも持っているのではなかろうか。
 例えば高齢化社会という言葉を聞き、このままでは年金制度が崩壊してしまうという専門家の声を耳にする。この言葉から、どれほどの老人たちが傷ついているのだろうかと思う。長生きして、老人として存在していることが、まるで迷惑であるかのような響きを感じ取るのは私だけであろうか。パソコンを使い、メールを交換し合い、世界中の情報を得ることができるようにもなった。若者たちだけでなく、壮年層までも話題の中心の一つはパソコンのことである。でもパソコンを使えない人は、その話題が巷に満ちれば満ちるほど疎外感を持つ。これもこころの傷である。あるいは心無い人の言葉に傷つき、人間関係に傷つくことなら誰にでもある。


イエスのやさしさ
 星野富弘さんの傷とは、私たちの誰もが持っている傷のことではなかろうか。傷は癒されなければならないと思う。しかしその傷をどのようにして癒してゆけばよいのであろうか。体の傷を癒す場合に私たちは病院を行き、そこで様々な治療を受け、また薬をもらう。これと同じように、こころの傷も様々な人の手を借りた癒しが必要なのだと思う。そのような様々な癒し手の中に、忘れてはいけないものがあることを星野さんの詩は教えている。
 それは、自分の傷の痛みを本当に知り、その痛みを共に分かち合い、励ましてくれる方の存在である。その方のことを星野さんは「あなた」と呼んだ。それはイエスのことである。イエスのやさしさがこころの傷を癒してくれたのである。
 イエスは十字架で痛みを体験された。鞭打たれ、茨の冠を頭にかぶせられ、手と足には釘を打ち込まれた。体の傷の痛みをこの上なく味わわれたのである。十字架を運ぶ途中には人々につばを吐きかけられ、兵隊たちからは「自分が神の子なら、自分を救ってみろ」と嘲弄された。恥を忍ばれたのである。これをこころの傷と呼ぶことが許されよう。星野さんと同じ傷を負った方がイエスであることを知ったときに、そこからイエスのやさしさがしみてくるのを見たのであろう。
 このことを聖書は、「ご自身(イエス)、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と伝えている。


互いのやさしさを
 いま私たちが暮らすこの世界には、いったいどれほどのやさしさがあるだろうか。傷つけるものだけが大手を奮っている。世界中への広がりを見せつつあるテロの恐怖。慢性的な将来への不安など、枚挙に暇がない。言葉や武器を使った暴力が人の体とこころを傷つけ、痛みを負った者がさらなる暴力を生み出している。戦渦の国へ目を向けるまでもなく、身近なところからもやさしさが消え失せてしまっている。
 だから私たちは、イエス・キリストの十字架に眼を向けたいと思う。そこには底知れぬやさしさがある。こころの傷がそのやさしさで覆われるような体験をしたい。
 そしてそれだけではない。星野さんが言った「あなたのやさしさ」が、私たち人間の互いのやさしさでもありたいと思う。私たちのいまの社会は、自分が生きることで精一杯になり、自分の存在をアピールすることのみが奨励されている。そこでは他者の存在が見えてこない。少なくとも隣人の傷や痛みにこころを動かされることは難しい。
 やさしさは「優しさ」と漢字で書く。「優」は「イ」に「憂」。すなわち、人が「憂える」という意味である。とすれば、やさしさとは互いが心配し合い、隣人の傷と痛みにこころを痛めるということになろう。
 イエスのご生涯はこのやさしさに貫かれていた。それが特に十字架においてであったと聖書は教えている。「やさしさ」という言葉は一見ひ弱な印象を与える。でも「やさしさ」から、本当の強さが生まれ、芽生えてゆくのだと思う。十字架の後イエスは復活され、それに出会った弟子たちは大きく変えられ、力強く成長して行った。イースターの知らせはこのことを暗示しているのに違いない。

2004年3月29日

 教会の桜(染井吉野)


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