牧師室より


牧師館の窓から
目白とヒヨドリ
 冬になると、牧師館の窓から目白の姿を見ることができる。粗末な餌場であるが、そこに毎朝二つに割ったみかんを置く。夕方にはもう皮以外は何も残っていないほどに、見事についばんでいる。その姿が実に可愛い。
 餌場にやって来るのは目白だけではない。ヒヨドリである。カラスも時折襲来するが、ヒヨドリは実に頻繁にやってくる。餌場のみかんを、まるで自分のものだと言わんばかりに居座り、目白が近づくたびに威嚇し、追い払う。だからわずかの間隙を縫って、目白はみかんをついばむのである。
 ヒヨドリには気の毒だが、どうしても判官びいきになる。小さい目白を応援したくなる。そしてたっぷり食べた後も、目白に食べられないように餌場に居座り、見張っているヒヨドリが、強欲な鳥のように見えてくる。
 でもそれは、私たち人間の姿を映し出しているのかも知れない。国境なるものを勝手に敷き、天から与えられた石油や鉱石の資源を自分のものと主張し、外からやって来る者を追い払っている。もう一方では間隙を縫って、力のある国がその国にある資源をかすめ取ろうとする。人類の行っている姿は、餌を奪い合う鳥と同じに見えてくる


分かち合う心を
 イエスの教えは、人間の「強欲さ」を戒めるものであった。奪い取るよりも、「下着を取ろうとする者には上着をも取らせなさい」と、むしろ分かち合うことを勧められた。そのような生き方をイエスご自身がされたのであるが、イエスと同じように生きることはできなくても、自分の持ち物や時間、賜物を少しでも分かち合う者でありたいと思う。そしてまず何よりも大切なことは、自分の強欲さに気づくことではなかろうか。
 イエスはこう教えられた。与えられた賜物や才能は、もともと神様から預けられたものであると。だから自分のためにだけ用いるものではなく、何かを生み出すためのものであると。その生み出されたものは、他者のために、そして神様の御用のために用いられるものとなる。
 私たちの日々の生活の現実は、自分のことで精一杯となり、自分や家族がまず生きることが中心にならざるを得ない。でも私たちが自分の時間、賜物などを、ただ自分や家族のためだけに用いているのであれば、それは悲しいことであり、そこに「強欲さ」を見なければならないのであろう。
 自分の時間、賜物、財産、心、それらのものを他者のために、そして神様のために少しだけお返しする余裕を持ちたいと思う。それらのものは、私のものと言うよりは、本来「天から与えられた預かりものである」というイエスの教えを、心に留めたいと思う。

2004年2月20日

牧師館の窓から
「みかんをついばむ目白」


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