牧師室より


秋に想う・・・牧師室の日記より
葉っぱの傷
 教会の庭に木の葉が舞う。春は椎の木や木犀の葉が落ち、秋には桜や芙蓉の葉が色づき落ちる。これからも少なくとも一日に二回は掃かなければならない。秋は果実をもたらす実りのときであるが、葉っぱにとっては自分の役目が終わったことを告げられるときである。つまり短い生涯を閉じるときとなる。
 落葉した葉っぱは、どれ一つとして同じものはない。色づき方、大きさのすべてが異なっている。そして葉の多くが虫に喰われたような穴が空いている。これまたそれぞれ異なった形であることに気づく。人間と同じように、それぞれが異なった傷を負いながらも、精一杯生きてきたのであろう。
 私たちは店頭に並べられた野菜や果物を毎日眺めることで、もしかすると錯覚に陥っているのかも知れない。虫食いのない綺麗な葉っぱや果実、まっすぐに伸びた大根や人参が自然であると。しかし本当の自然は、庭に落ちた葉っぱの姿にこそあるのではないかと思う。きっと人間も欠けや傷を持つことが自然であり、それを引き受けながら精一杯生きることが大切なのであろう。


不自然なこと
 またここ2,3年、自然の営みに変化が起こっていることに気づく。桜の葉が色づく前に、緑のまま落ちてしまうのである。生涯の途中にして落葉してしまっている。これは自然なことではない。つまり、自然界の営みを乱す何ものかがいるのであろう。空気や水の汚染に、地球の温暖化。環境破壊と呼ばれる現象がその要因に違いない。
 自然界に反する現象は、人間の世界にも押し寄せているのではなかろうか。世界経済の動向もそれであろう。政治家や企業のリーダーなど、日本社会を動かしている一握りの人々の判断ミスによって翻弄され、職を追われ、家族をも失う無数の人々がいる。あるいは崩壊した家族の犠牲になる子供たちがいる。人生の途上でこれまでの道を踏み外し、生涯を閉じなければならない人々もいる。実につらく、悲しいことである。教会は、そのような人々に何ができるのであろうか。

2003年11月5日

 落ち葉(桜)


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