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| 過去の傷 |
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しばらく続いた厳しい残暑から一転して、肌寒い日を送っている。季節は秋へと向かい、実りの秋、落葉の時節を迎えて行く。秋は物思いに耽るときでもある。古き時代の歌人や詩人のように、自然の営みに心静かに思いを寄せたいところであるが、しかし頭をめぐらすことは、日々洪水のように押し寄せてくるこの世の現実である。例えば、一向に収まる気配のない西アジアを中心としたテロや内戦がある。敵対する者同士の憎悪と復讐心が、四千年近い昔の旧約聖書時代からの堆積であること知るとき、何とも言えない闇たんたる気持ちになるのは私だけではないであろう。民族の過去に目を向ければ向けるほど、問題の根深さと解決の困難さを覚えざるを得ない。
もっと身近なところからも、この世の現実を見ることは容易である。いま青少年の犯罪や非行に留まらず、中高年が犯罪に手を染めるケースが増えていると聞く。犯罪に加担することになった原因は様々であろうが、幼いころや思春期に心の傷とでも言うべきものを負いながら、それが癒されることがなかったことを一因とする専門家は多い。誰でも心の傷は負うものであるが、その傷が深いほど深刻である。過去の傷が癒されることが求められている。しかしその取り組みは容易ではなく、また十分とも言えない。 |
ある書物から |
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では、われわれは過去の問題に取り組むことが一番大切なのであろうか。それは確かに大切なことであろう。でもそれだけでよいのだろうか。過去の傷をできるだけ癒すことを求めつつ、しかしもう一つの視点が重要ではないかと思う。それは「新しい人」へと向かうことである。
最近作家の大江健三郎さんが『「新しい人」の方へ』(朝日新聞社)という本を出された。難解で、独特の回りくどい表現から敬遠されがちな作家であるが、この本は実に平易な文章である。「新しい人」という言葉に大江氏は、新約聖書のエフェソ書から出会ったと言う。この言葉を用いて、敵意を滅ぼし、和解をもたらすための「新しい人」になるための教育を呼びかけている。そしてその生き方をしたのがイエスであり、またエフェソ書を書いたパウロであったのではないかと、控え目に解説している。
大江氏の目は明らかに、いまの世界情勢へと向けられている。ニューヨークのテロから始まった世界的な報復の連鎖が、これからも繰り返されようとしている。この連鎖を断ち切るために、過去に拘り続け、敵意を燃やす「古い人」から、敵意を滅ぼし、和解を達成する「新しい人」を目指さなければならないという世界へのメッセージである。「新しい人」の方へと向かう生き方。このような生き方がいま求められているのではないだろうか。
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「新しい人」を大切に |
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大江さんに啓発されて、新約聖書に書かれたパウロの言葉を読み直してみた。そして気づかされたことは以下である。
まず「新しい人」とは、イエスご自身の姿であるということ。大江氏が同書で指摘してように、イエスは十字架によって敵意を滅ぼし、和解を遂げることによって「新しい人」の姿を生きられたということである。このイエスの生き方に、われわれは「新しい人」を見ることができる。
次に、われわれ自身のことである。残念ながら、われわれは自分の力で敵意を滅ぼし尽くすことはできないし、和解を完全に成し遂げることもできない。たとえ傷が治っても、その傷跡は消えないように、心の傷は完全に癒されることはできない。しかしながら、その傷を癒すための努力を惜しんではならないと思う。そのためには助けがいる。それがイエスではなかろうか。イエスはわれわれに代わって「新しい人」として生きてくださった。その「新しい人」の生き方が聖書には記され、その足跡が刻まれている。それを少しでも辿る生き方をしたい。
第三は、われわれが生きているこの世のことである。いま人は、生きる糧を見出すことに血眼になってはいても、生きる意味を問うことはせず、生きる目標も見出せないでいるのではなかろうか。自分の過去の傷をいまだ癒すことができず、そしていまの現実の前に押しつぶされそうな状況である。ここには「新しい人」の方へ向かう視点はない。しかしいまを生きる人に本当に必要なことは、「新しい人」の方へと顔を向け、そちらの方へと向かう生き方を始めることではないかと思う。そしてキリスト者の端くれの一人として、この世の隣人に「新しい人」の存在を知らせ、そちらの方へと一緒に歩み始めてみることを勧めて行きたいと思う。 |
2003年9月29日 |