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| ある悠長な話し |
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| ある日、教会誌が届いた。以前ドイツに滞在していたときに通っていた教会からの印刷物であった。「教会の扉が再び開かれます」という記事に目が止まった。実は我が家族が渡独して間もなく、田舎町の中心にある教会の床に埋設されている暖房装置が壊れ、修理を行うことになってしまった。その間教会の扉は閉じられ、町外れの墓地に隣接された小さな教会で礼拝が行われていた。そして今ようやく修理が終わり、再び扉が開かれることになったという訳である。実に5年の修理期間を要したことになる。
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現代に生きる私たちの時の流れ |
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交通手段や科学技術の発達に加え、通信技術の目を見張る発展によって、現代社会の時間の感覚は10年前と比べただけでも格段に速くなった。テレビのアナウンサーの原稿を読み上げるスピードも、音楽のテンポも以前に比べ随分と速くなっているように感じる。このような感覚にいつのまにか麻痺してしまっている私には、「5年間も床修理にかかるとは、何と悠長なことを」と思えないではない。が、この5年間という時の流れが、一つの問いかけをしているようにも思うのである。それは、我々は余りにも結果を急ぎ、早急な成果を求め過ぎているのではないかという問いかけである。
もっとも、現代社会の流れの中で生きているからには、悠長なことをしていたのでは競争に負け、社会からも弾き出されてしまう現実があることは知っている。だから人よりも鼻先を利かせ、一歩先を読んだ素早い行動をもって業績を積み上げて行くことをいたずらに否定するつもりはない。しかしそれだけでは息がつまり、疲れてしまうのではなかろうか。少なくとも教会においては、あるいは信仰の領域においては、これと違う時の流れがなくてはならないのだと思う。
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神の時が流れているところ |
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教会の礼拝堂の椅子に一人静かに座っていると、まるで時間が止まっているかのような気分に陥ることがある。車や人込みの騒音から隔絶された空間でしか味わえない体験かも知れない。ここには、外の社会とは異なった時間の流れがあることに気づかされる。それは人間が作り出した時間ではない。科学技術や通信の発達によって変化する時間でもない。ましてしびれを切らしたかのように、早急な成果を催促するような時間の流れでもない。ただ神が支配する時間である。それは現代に生きる我々の誰もが必要としている、時の流れではなかろうか。ここに身を委ねる者は、魂の癒しを覚え、自分が生きる相応しい道を悟るに違いない。
冷夏となった季節もこれから秋へと向かう。農作物の収穫が心配されている。天候そのものも本来神の支配の営みであるが、これほどの世界的な異常気象が頻発しているとすれば、その原因を、神の時の流れに逆行する人間の営みに見るのは私だけであろうか。収穫の秋は人生にも例えられよう。現代人は余りにも忙しすぎる。「忙しい」とは「心を亡ぼす」と書く。そうであってはいけない。神の時の流れを大切にし、その時に身を委ねる時間を大切にしたいと思う。そこに人生の確かな実りがあるに違いない。
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2003年8月18日 |