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| 温かみのある経済の話し |
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内橋克人という経済評論家がいる。私の好きな評論家の一人であるが、この評論家の経済論は素人にも分かりやすく、何よりも温かみがある。こういう視点である。
| 人が生きていくための営みである経済が、今は人をなぎ倒していく。むき出しの競争に勝つものが、正しいものであるのか。バブル以降変転する経済の言説の中で、常に「それで人間どうなるのか」と問い続けてきた。(『もうひとつの日本は可能だ』から) |
内橋氏はこれまでの経済を「徒労の経済」と呼び、そこからの脱却を提案する。そして「会社は潰れても人間は潰れない、そういう社会を目指そう」という。これを目的とする経済論に私は温かみを感じている。内橋氏は「私の原点は、原罪意識に他ならない」とさらに次のように告白している。
戦争時代に小学生であった氏が盲腸の手術を受けることになった。母親はすでに病死しており、父親が付き添うことになったのであるが、家に姉が一人残されることになってしまう。そこで近所の知人が母親代わりに家に来てくれたのである。そのときに神戸大空襲が起こった。家の防空壕に避難したものの、不発の焼夷弾で命を落としてしまったというのである。本来ならば自分が座る場所にその婦人がいたために、いわば内橋氏の身代わりになって死んでしまったのである。内橋氏は小学生でありながらも、非常な罪の意識を持ったという。この体験が同氏の原点となっているのである。自分の人生はその婦人の尊い犠牲の上にある。だから「見えない人間」の存在を決して忘れてはいけない、といつも心に刻んでいるのである。 |
ある「原罪」理解 |
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内橋氏の具体的な経済論は他へ譲るとして、その経済論の原点に「原罪意識」があるとは興味深い。それをもう少し言い直すならば、自分が意図的に手を貸さなかったとしても、結果として自分のために一人の尊い命を犠牲にすることになってしまったこと、これを「原罪」と理解しているのであろう。
正確に言えば、キリスト教でいう「原罪」とはこのようなものではないが、しかしよく理解できる。私たちは不可抗力というものにしばしば直面する。人間の努力では解決できないことがあり、自分の意図しないところで他者を傷つけてしまうことがたくさんある。例えば競争社会という言葉があるが、競争に勝つ者は必ずや敗者を生み出さなければならない。そこですでに他者を傷つけているのではないか。このいかんともし難いことも内橋氏は「原罪」と呼んでいるのである。この社会では仕方のないことなのかも知れない。が、その傷つけてしまった存在を忘れてはいけないということであろう。 |
「見えない人」を忘れてはいけない |
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イエスの生涯を辿るとき、それは傷つけられた人々を決して忘れなかった生涯であったことに気づく。それどころか、存在を無視され、当時の社会の敗者とも思われる人々を招き、そして彼らの尊厳と命の尊さを回復された方であった。いま私たちの時代にも、イエスの時代とは形を変えた人間の尊厳を脅かされている人々がたくさんいるのではなかろうか。
競争社会には勝者と敗者が生み出される。しかし人間存在や人間の尊厳での勝者と敗者は決していない。だから競争社会の勝者は、結果として敗者を作り出してしまったことへの「痛み」を忘れてはいけないし、また敗者は人間の尊厳は何ら脅かされていないことを知らなければならない。これが今日の社会に語られているイエスの教えであり、教会が宣教しようとしている内容である。
私たちの今日の社会は温かさが薄らいできているように感じられる。すべての人が自分自身の存在の尊厳を確認でき、それは神様から与えられた命であることに確かな根拠を持つことを認め合うこと、それが温かさだと思う。教会はまさにこれを実践するところであろう。もちろん教会も単なる理想社会ではない。欠け多き群れであるが、イエスの教えに生きる群れでありたいと思うし、そのような思いを抱く人を招き入れる群れでありたいと願っている。
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2003年7月14日 |