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| 二つの答え |
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多少季節はずれな話しであるが、ある本で面白い話しに目が止まった。
ある小学校で先生が「氷がとけたら何になりますか」と質問したという。理科の時間であったのであろう。するとほとんどの子供が「は〜い。水になります」と答えた。ところが一人の子供だけが「氷がとけたら春になります」と答えたという。「水になる」とは常識であり、科学的真理である。しかし、もう一つの答えにもこれまた真理がある。しかもそれには温もりがあり、やさしさがあり、光がある。これは「詩的な心がある」と言ってもいい。
これがその本の筆者の結論であった。自分が小学生であれば、きっと「水になる」と答えたことであろう。と言うよりも、その一つの答えだけを正解とし、その答えのみを見つけ出す教育を受けてきたように思う。確かに理科の授業であれば「春になる」ではなく、「水になる」の方が相応しい答えであろう。しかしながら、私たちは余りにも「水になる」という一つの答えのみを追い求め、それ以外のいわば「詩的な心」の答えを排斥してきたのではなかろうか。 |
「詩的な」言葉 |
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「詩的な」という言葉は曖昧さを含む言葉である。詩を読む者の感性に訴えかけ、曖昧さをもってしか表現できないことの響きを他者に伝えようとする、それが詩ではなかろうか。そのような「詩的なこと」に心を動かされることを大切にし、詩を通して訴える者の心の響きを受け取る教育を私たちは蔑ろにしてきたのかも知れない。
聖書の言葉はこの「詩的な」言葉と触れ合うところがあるように思う。なぜなら神、これを人間の言葉で表現し尽くすことができるはずがないからである。とすれば、ある意味での曖昧さを前提として、科学的に神を証明することを目的とするのでもなく、自らがイエスの言葉や教えに触れたときに感動した心の響きを(いや、それはむしろ「魂の響き」と言うべきであろう)、「詩的に」表現するしかなかったのではなかろうか。
それが単なる歴史書と聖書との決定的に異なる点であろう。イエス・キリストの生涯に触れた者の感動を記した福音書、イエスの教えに触れたときの魂の響きを「詩的に」表現したパウロの書簡。それらを読む者は「氷がとけたら春になる」と答えた子供の心、まさにイエスが言われた「子供のように神の国を受け入れる柔らかな心(信仰)」が必要なのであろう。
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「計算思考」から解放されて |
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聖書を手にする実に多くの人が、しばしば習慣づけられた科学的な思考をもって読み、躓き、挙句の果てには聖書を批判し、途中で放り投げてしまうのである。まことに残念なことである。しかしそうではない。むしろ問われているのは聖書ではなく、聖書を読む「私たち」である。批評の対象は聖書ではなく、むしろ私たちの心構えであり、読み方なのである。
先ほどの本の著者はさらにこう書いている。
| ある哲学者は「計算思考」と「瞑想思考」との区別を強調する。そして「計算思考」が異常なほどに発達した現代において失われ、しかも人間にとってもっとも大切なものは「瞑想的思考」であるとその哲学者はいう。 |
この哲学者の言葉を借りれば、聖書を読むときに計算思考では、神の言葉を理解すことは到底できないと言えよう。私たちはこれまであまりにも計算思考で考えすぎてきたのかも知れない。学校では計算思考が何よりも優先され、社会でも業績という計算思考が要求される。つまり、計算思考なしではこの社会では生きて行けない現実の中に私たちは置かれ、その思考に翻弄され、服従させられているのではなかろうか。
だからこそ計算思考で月曜日から土曜日までの6日間を過ごしてきた私たちは、日曜日(すなわち安息日)のひと時だけはその思考から解放されなければならないと思う。少なくともこの日だけは計算思考からしばし自由になり、瞑想思考によって神の言葉を聞き、「詩的な心」で聖書の言葉を味わい、そして神の恵みを味わうのである。このような時間と空間が現代の私たちには何にも増して必要なのではなかろうか。 |
2003年6月12日 |