牧師室より


クリスマスの物語がこの1年も

 新しい年を迎え2週間が経った。昨年は日本中が悲しみに沈んだ年であった。特に被災地に皆さんの日々の生活が少しでも安定し、希望を見出せる年となるように祈りを献げ続けたいと思う。
 さて、巷では既に3週間前のクリスマスは遠い過去の思い出となっているが、しかし教会はその余韻をまだ大切にする期間を過ごしている。このことを象徴的に著しているのが、つい先日の礼拝で(1月8日)、通常クリスマスの時に読まれる聖書の箇所を読んだことである。3人の占星術の学者が(以前は「3人の博士たち」と呼んだ)輝く星を頼りに、家畜小屋に寝かされた幼子イエスに見えることができというところである。
 普通に考えればやや時期外れの観があり、賞味期限が過ぎてしまった印象は拭えない。ではなぜ、教会は未だにクリスマスの余韻を引きずっているのだろうか。



教会の暦の始まり

 クリスマスは終わりではない。暦はクリスマスで終わるが、しかし教会の暦では始まりである。幼子イエスが誕生されたことからご生涯が始まるわけである。これに新年を迎えた私たちを重ね合わせるならば、新年にこそクリスマスの物語は相応しいと言えるのではなかろうか。
 新しい思いを抱きながら、新年の歩みを始めた私たちが、イエスがどのように歩まれ、どのような生き方をされたのかを辿りながら、そのご生涯の足跡の上に自分の足跡を少しでも重ね合わせるように歩み始めるための良いタイミングだと思う。



輝く星に代わるもの

 占星術の学者たちを導いた輝く星は、幼子の場所を照らした後、役目を終えるかのように消えた。輝く星もクリスマスで終わったように思える。しかし輝く星に代わるものが、私たちをまことの道へと導いて行く標となり、足下を照らす明かりとなる、これが私たちの理解である。
 その標、明かりとは聖書のみ言葉であり、イエスの教えである。輝く星は直接に言葉を語ることはなかった。しかしイエスのご生涯を辿る時に聞こえて来るのは、そのイエスの教えであり、またなされたわざである。
 イエスの下にやって来た人々は、不治の病人であり、長年障害に苦しんだ人々であった。生きる道に迷った老人、孤独に暮らしていた金持ちや品行方正な青年もいた。今日で言う派遣労働者もおり、いわゆる普通の人もいた。
 どんな人でも、いつの時代の人でも、神様から命を授かり、そして最後はその命を引き取って戴かなければならないのであるからには、神の教えを聞き、それを頼りに生きなければならない。それがイエスの教えである。この教えを標とし、暗闇の囲む足下を照らす灯火とする、そのような1年間の歩みを始めたいと思う。


2012年1月14日

「牧師室より」:過去ログ




牧師紹介 牧師 立山忠浩
立山 忠浩
1954年生まれ。
2年間社会生活の後、日本ルーテル神学校に入学し、
1985年に牧師となる。
赴任教会は、宇土・松橋教会(熊本)、三鷹教会、
そして現在の東京池袋教会に至る。
趣味は山登り(残念ながらしばらくお休み状態)、
スポーツとニュース番組を見ること、古本屋巡り。