牧師室より


花が散り、そして新緑の芽が

染井吉野と八重桜

 教会の桜も散り始めた。本格的な春の到来である。桜にも色々な種類があるが、教会には染井吉野と八重桜がある。八重桜にもピンク色の花びらの濃いものと薄いものがある。
 染井吉野と八重桜には色々な違いがある。まず咲く時期が違い、染井吉野が完全に散り終えた頃に八重桜がようやく咲き始める。花びらの量も随分と違い、落ちた花びらを掃き集める時に大変なのは八重桜の方である。まだ他にも違いがある。八重桜が、葉っぱが伸び始めてしばらくして咲き始めるのに対し、染井吉野はまず花が咲き、花びらが落ちた後に新緑が芽を出す。なぜ同じ桜でもこんなに違うのか、自然界の営みは実に不思議である。



自然の営みが語っている

 イエスはしばしば自然界の営みを例にとり、神の国の教えを語られた。「野の花を見よ、空の鳥を見よ。これらの自然界の生きものを神様が愛されているように、あなた方にはなお更神様の愛が注がれている。何も心配することはない」(マタイ6章25節以下)、この教えが代表例である。
 もしイエスが日本の国に生きられたらならば、きっと桜を喩えて、神の国の教えを語られたに違いない。では、どんな教えをされたことであろうか。例えば私はこう思う。「この染井吉野の花びらを見てごらん。花びらが散った後に、新しい命が誕生しているではないか。人の命もこれと同じで、たとえこの世の生涯を散り終えても、新しい命がまた誕生するのだよ」と。
 神の愛の眼差しに生きる人は、この地上の生涯を閉じようとも、神の下に帰り、そこで依然として生かされることを信じるのである。



古い自分が死んで、新しく生きる
 イエス・キリストの復活はこのことを教えている。人が死んだ後の新しい命のことである。ただ、それだけに留まらない。いや、むしろこの世に生きる私たちにとってのもっと重要な教えがある。それは死んだ後のことではなく、生きている「いま」のことである。染井吉野はむしろそれを教えているように思う。
 人は古い自分が一度死ななければならない。古い自分とは、神の愛、神の教えに背を向け、自分中心に生きる人のことである。自分中心に生きる人の姿を、イエスは、父親の財産を飲み食い、女遊びに使い果たしてしまった放蕩息子の例話で話されている。しかし、放蕩息子の姿は、神を忘れて、自分勝手いに生きている私たちすべての姿ではなかろうか。
 神様に背を向けていた古い自分が死んで、神様に方に顔を向け、神の教えを大切にしながら生きる新しい生き方を回復する。これが復活の意味である。自然の営みが、私たちに語りかけていることは、何と味わい深いことか。

2008年4月1日

 「新緑のもみじと染井吉野」



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牧師紹介 牧師 立山忠浩
立山 忠浩
1954年生まれ。
2年間社会生活の後、日本ルーテル神学校に入学し、
1985年に牧師となる。
赴任教会は、宇土・松橋教会(熊本)、三鷹教会、
そして現在の東京池袋教会に至る。
趣味は山登り(残念ながらしばらくお休み状態)、
スポーツとニュース番組を見ること、古本屋巡り。